深夜のバー、女たちの本音:夫婦のいさかいの種
煙草の紫煙がゆっくりと天井に吸い込まれていく。深夜のバー「月灯り」。カウンターの奥では、しっとりとした着物姿の ママ がグラスを磨いている。その隣では、まだ若いホステスの ゆかり が、ため息交じりにグラスを拭いていた。閉店間際の静けさが、二人の会話を際立たせる。
「ゆかり、あんた、また元気ないわね。どうしたの、何かあった?」
ママの問いかけに、ゆかりは顔を上げた。その目は、少し赤く腫れている。
「ママ……実は、今日の昼間、彼と些細なことで喧嘩しちゃって。まだ、なんかモヤモヤしてて……」
ママは心得顔で頷くと、ゆかりの前にそっと温かいおしぼりを置いた。
「あらあら、また男とね。男ってやつは、本当に女の気持ちをわかってないから困るわよね。あたしも昔、旦那と些細なことで揉めて、三日三晩口をきかなかったことがあるのよ」
「ママもですか? それで、旦那さん、何でママを怒らせたんですか?」
ゆかりは興味津々といった様子で身を乗り出す。ママは少しばかり躊躇したが、やがて苦笑いを浮かべた。
「それがね……くだらないことなんだけど、旦那がね、あたしに内緒で昔の女に会ってたのよ」
ゆかりは「えーっ!」と声を上げ、思わずグラスを取り落としそうになった。
「昔の女ですか! ママ、それは腹立ちますよね! 奥さんがいるのに、他の女に会うなんて、ひどすぎますよ!」
「まあね。ごもっともよ。でもね、男ってやつは、たまには羽目を外したくなるものなのよ。あんたの彼だって、そうなんじゃない?」
ママはにやりと笑い、ゆかりの顔を覗き込む。ゆかりは咳払いをして、顔をそむけた。
「うーん……まあ、そうかもしれないですけど。でも、男と女の仲って、本当に複雑ですよね。夫婦喧嘩の原因なんて、本当に人それぞれって感じです」
「そうね。でも、夫婦喧嘩の原因として、まず挙げられるのはやっぱり浮気じゃないかしら」
ママは真面目な顔で言う。
「はい、そう思います。これはもう、夫婦の信頼を根底から壊す、一番直接的な原因ですよね。裏切り行為だし。でも、浮気って言っても色々ありますよね。本気になっちゃうパターンもあれば、ただの一時の気の迷いってこともあるし。ママはどう思います?」
「そうねえ。本気の浮気は、家庭を壊すことにもなりかねないわ。でも、たとえ一時的な気の迷いだったとしても、相手の心には深い傷を残すものよ。あたしの友達でね、旦那に浮気されて、結局、離婚しちゃった子がいてね……」
ママはそこで言葉を切ると、遠い目をしてグラスを磨いた。ゆかりは面白そうにその話を聞いていたが、やがて真顔に戻る。
「じゃあ、浮気は論外として、次に夫婦喧嘩の原因になりやすいことって、何だと思います?」
ゆかりが問いかける。ママはしばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「それは……ギャンブルね」
ゆかりは「あっ!」と小さく声を上げた。
「なるほど! ギャンブルですか! それは確かに根深い問題ですよね。私のお客さんでも、ギャンブルで身を持ち崩した旦那さんを持つ奥さんの愚痴をよく聞きます。ママの周りにも、ギャンブルで夫婦仲が悪くなった人っていますか?」
「ええ、それがね、うちの常連さんで、旦那さんがギャンブルにのめり込んじゃってね。家のお金を使い込んじゃうのはもちろん、奥さんのへそくりまで持ち出そうとする始末。さすがに奥さんも愛想を尽かして、家を出て行っちゃったそうよ」
ママはため息をつく。
「へぇ、それはひどい話ですね。ギャンブルって、一度ハマると抜け出すのが難しいって言いますもんね。勝てばさらに欲しくなって、負ければ取り返そうとして深みにはまる。そして、お金がなくなれば、家族にまで迷惑をかける。奥さんが怒るのも当然ですよね」
「そうよ。ギャンブルは、浮気とはまた違う種類の裏切りよ。浮気が心の問題なら、ギャンブルは生活の問題。生活が破綻すれば、夫婦関係も破綻するわ」
「でも、ママ。ギャンブルって言っても、たまに息抜きにやるくらいなら、問題ないんじゃないですか? 例えば、パチンコを少しやる程度とか、競馬をちょっと楽しむくらいだったら」
ゆかりが問うと、ママは首を横に振った。
「ゆかり、それは甘い考えよ。確かに、少額で嗜む程度なら問題はないでしょう。でも、ギャンブルには魔物が潜んでいるの。一度その魔物に取り憑かれれば、理性を失い、際限なくのめり込んじゃうものよ。最初は少額から始めた人でも、気がつけば取り返しのつかないほどの借金を抱えている、なんて話は数えきれないほどあるわ」
「うーん、確かにそうかもしれないですね。私も、若い頃にちょっと手を出したことありますけど、あの高揚感と、負けた時の絶望感は、一度味わったら忘れられないですもん。だからこそ、私はもう二度とギャンブルには手を出さないって決めたんです」
ゆかりはゆっくりとグラスを拭いた。
「それに、ギャンブルはお金の問題だけじゃなくて、精神的な問題も引き起こすのよ。ギャンブルに負けて家に帰れば、イライラして家族に当たったりする。勝てば、逆に散財しちゃって、結局は無駄遣い。どっちにしても、夫婦の間に揉め事の種をまくことになるわ」
ママは淡々と語る。その目は、まるで世のすべての苦労を見てきたかのようだった。
「なるほど……。浮気とギャンブル。どちらも夫婦にとって、本当に嫌なものですね。でも、ママ、私思うんですけど、浮気は、まだ心のどこかに相手を思いやる気持ちがあるうちは、やり直せるかもしれない。でも、ギャンブルは違う。ギャンブルは、一度のめり込んだら、家族のことも顧みず、自分の破滅へと突き進む。そして、その過程で、家族の絆をずたずたにする」
ゆかりは深刻な顔で言う。
「ゆかり、あんたもなかなか良いこと言うわね。ギャンブルは、その性質上、中毒性があるから、一人で抜け出すのは本当に難しいのよ。周りの助けがなければ、泥沼から這い上がることはできない。そして、多くの場合、その周りの助けっていうのは、家族が差し伸べる手なの。でも、その手すらも振り払ってギャンブルに興じるようじゃ、夫婦関係の修復はもう無理だって言わざるを得ないわ」
「ですよね。だからこそ、私はギャンブルだけは絶対に許せないって思っちゃうんです。私の大事な人がギャンブルに手を出したら、もう絶交しちゃうかも」
ゆかりは言い放ち、力を込めてグラスを磨いた。ママは慌てて手を振った。
「まあまあ、ゆかり、そんなこと言わないの。でも、それほどギャンブルは恐ろしいものだってことよね。あたしも、自分の身をもってそのことを知ってるからこそ、ギャンブルに手を出そうとする子には、容赦なく忠告するわ」
「はい、ママの言う通りです。ギャンブルの恐ろしさを身をもって知ってるからこその言葉、私も肝に銘じます」
ゆかりは深々と頭を下げた。
「でもね、夫婦喧嘩の原因は、浮気やギャンブルだけじゃないのよ。例えば、お金の使い方の違いも大きいわね。旦那さんが無駄遣いばかりする、あるいは奥さんが派手好みでお金がかかる、なんて話もよく聞くもの」
ママは話題を変えた。
「そうですね。金銭感覚の不一致は、日々の生活に直結する問題だから、これもまた夫婦喧嘩の原因としては見過ごせませんよね。私のお客さんでも、奥さんがブランド品ばかり買い漁って、家計を圧迫したことで、夫婦仲が冷え切ってしまった人がいます」
「ふふ、女はとかく見栄を張りたがるものだからね。でも、男だって同じよ。あたしだって、新しい着物や指輪を見たら欲しくなるもの。結局、夫婦っていうのは、お互いの欠点を受け入れて、補い合わなきゃ、長続きしないものなのよ」
ママはしみじみと語る。ゆかりは静かに頷いた。
「ママの言う通りですね。夫婦って、まるで二つの違う川の流れが合流するようなものですよね。最初はぶつかり合うこともあるだろうけど、やがては一つの大きな流れになって、一緒に未来へ向かって進んでいくものですよね」
「ゆかり、あんた、なかなか良いこと言うわね。まるで詩人みたいだわ」
ママは上機嫌でゆかりの肩を叩いた。
「いえいえ、ママの話を聞いてたら、つい口が滑っちゃいました」
ゆかりは恐縮したように頭を下げる。
「でもね、夫婦喧嘩っていうのは、ある意味、夫婦の絆を深めるための儀式みたいなものかもしれないわね。お互いにぶつかり合うことで、相手の考えを知って、理解を深める。そして、仲直りすることで、より一層強い絆で結ばれる」
ママは考え込むように言った。
「ママ、本当にそうですね。私も、彼と喧嘩した後は、なぜか前よりも仲が深まるような気がします。喧嘩を通じて、お互いの本音をさらけ出して、より深く理解し合えるようになるのかもしれません」
「ええ。でもね、度が過ぎた喧嘩は禁物よ。特に、言ってはならないことを口にしたり、手を出したりするのは論外よ。それはもう、喧嘩じゃなくて、暴力だもの」
ママは真剣な眼差しでゆかりを見つめる。
「ママの言うこと、肝に銘じます。私は、どんな時も彼に手を出したことはありません。口論になることはありますけど、それも度が過ぎないように、常に気をつけています」
ゆかりは胸を張って答えた。
「よし。その心がけは立派だわ。でもね、ゆかり、あんた一つ忘れてるわよ。夫婦喧嘩の最大の原因は、実は男の不甲斐なさにあるのよ」
ママはにやりと笑い、ゆかりの肩を再び叩いた。ゆかりは虚を突かれたように目を見開いたが、やがて噴き出すように笑い出した。
「ママ、本当にお見事です! その通りですよね。結局のところ、女を怒らせるのは男の不徳の致すところ。私も、これからは一層、彼を立てることに努めなきゃ」
「ええ、それがよかろう。ゆかり、もうこんな時間だもの。そろそろ帰って、明日は気持ちを新たに過ごすことにしましょう。そして、夫婦円満の秘訣を、あんたの身をもって実践するのよ」
「はい、ママの言うこと、心に刻みます。それでは、お先に失礼します」
ゆかりは深々と頭を下げ、店を出て行った。ママは一人残り、静かにグラスを磨く。きっと明日は、ゆかりの顔にも笑顔が戻るだろう。深夜のバーに、女たちの語らいの余韻が残っていた。
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