「越後屋、今日の儲けはどうじゃ?」
黒沼玄蕃は、分厚い唇をにやりと歪め、越後屋宗右衛門に目を向けた。越後屋は深々と頭を下げ、相変わらずのへりくだった態度で答える。
「へえ、お代官様のおかげでございます。今月もおかげさまで、大層な儲けが出ております。」
畳敷きの座敷には、金色の屏風が立てられ、部屋の隅には高価な焼き物が飾られている。二人の男の間に置かれた盆には、艶やかな饅頭が湯気を立てているが、彼らはそれに手を付けようとはしない。彼らの目は、常に金と権力、そしてそこから生じる愉悦を求めている。
玄蕃は扇子で膝を叩きながら、ふと、今日の昼間に耳にした奇妙な言葉を思い出した。
「越後屋、今日の市中見回りにて、まこと妙な言葉を耳にした。L・G・B・Tと申すそうだが、そちは何か知っておるか?」
越後屋は一瞬、眉をひそめたが、すぐにいつもの愛想笑いを浮かべた。
「お代官様、それは『えるじーびーてぃー』と読むそうでございますな。わたくしもつい先日、京から来た商人の口から聞きかじったばかりでございます。」
「ふむ、京の商人が申すか。まことに世の中は変わるのう。して、そのL・G・B・Tとやら、一体何のことじゃ?」
玄蕃は興味津々といった様子で身を乗り出した。越後屋は、まるで珍しい品物を紹介するかのように、しかし言葉を選びながら説明を始めた。
「へえ、お代官様。それは、なんでも、男が男を、女が女を好む者たちのことでございまして……。いや、そればかりではございませぬ。生まれながらの体の性と、心の性が異なる者も含まれるとか。」
玄蕃は、聞いていくうちに顔をしかめた。
「むう、男が男を、女が女をだと? それはつまり、衆道や百合と申すことか? しかし、それならば昔からあったことではなかろうか。」
「お代官様の仰せの通りでございます。しかし、どうやら現代では、そのような者たちを蔑ろにしてはならぬという考えが広まっておるようでございます。むしろ、そのような者たちも、この世のしきたりに従って生きる、ごく普通の人間として尊重しようという動きでございます。」
越後屋は、時折玄蕃の顔色を窺いながら言葉を続けた。玄蕃は腕を組み、難しい顔をしている。
「尊重、だと? この世のしきたりに従わぬ者を尊重するなど、聞いたことがないわい。男は女と夫婦となり、子をもうけ、家を継ぐのが当然の摂理であろうが。」
「へえ、まことにその通りでございます。しかし、現代では、そのような『当然の摂理』というものが、必ずしも全ての人に当てはまるとは限らぬという考え方もございますようでして。」
越後屋は、まるで恐る恐るといった様子で、さらに言葉を重ねた。
「彼らは、自分たちの生き方を隠さずに、堂々と世の中に認められようとしております。そして、それが叶わぬと、苦しむ者も少なくないとか。ゆえに、現代では、そのような者たちにも、住みやすい世の中にするために、様々な手を打つべきだという声が上がっておるようでございます。」
玄蕃は、ふう、と大きなため息をついた。
「世も末じゃな。そのような奇妙な者どもにまで気を遣うとは。ワシらの時代では、そのような者は日陰でひっそりと暮らすのが常であった。それが、表に出てきて権利を主張するなど、言語道断ではないか。」
「お代官様のお気持ち、お察しいたします。しかし、現代では、もはや『日陰でひっそり』では済まされない事態になっておるようでございます。何でも、そのような者たちへの差別は許されぬ、という法律までできるとか。」
越後屋の言葉に、玄蕃の眉間の皺がさらに深くなった。
「法律だと? 馬鹿な。法律というものは、世の秩序を保つためにあるもの。このような得体の知れぬ風習を助長するような法律など、あってはならぬ。」
「へえ、しかし、現代では、人の心の内まで縛るのは無理があるという考え方もございます。身体は男でも心が女、その逆もまた然り。そのような者たちを無理に型にはめようとすれば、かえって世の中が乱れるという声もございます。」
越後屋は、玄蕃の苛立ちを鎮めるかのように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「さらに申せば、これはわたくしの邪推に過ぎませぬが、現代社会においては、そのような者たちをも取り込むことで、新たな消費を生み出そうという動きもあるやもしれませんな。」
玄蕃の目が、ギラリと光った。
「ほう? 消費を生み出す、とな?」
越後屋は、待ってましたとばかりに、さらに声を潜めた。
「へえ。例えば、そのような者たちに向けた商品やサービスが開発されたり、彼らを対象とした市場が形成されたりする可能性もございます。あるいは、企業が多様性を重んじる姿勢を示すことで、社会的な評価を高めようとする動きもございます。」
玄蕃は、一転して興味津々の表情になった。彼は悪代官である。世の秩序や道徳など、彼にとってはどうでもいいことだ。彼が求めるのは、いかにして私腹を肥やすか、いかにして権力を盤石にするか、その一点に尽きる。
「つまり、そのL・G・B・Tとやらを認めることで、金になるということか?」
「お代官様、まことにその通りでございます。彼らが社会の表舞台に立てば、当然ながら消費の担い手となりましょう。結婚の形も多様化すれば、新たな婚礼産業も生まれるやもしれません。住宅、衣服、あらゆる分野で、新たな需要が喚起される可能性を秘めております。」
越後屋は、すらすらと弁舌を振るった。彼の頭の中では、すでにL・G・B・Tを対象とした新たな商売の計画が練られ始めているようだった。
「ふむ、なるほど。つまり、これまで日陰にいた者どもを表に出し、金を落とさせるということか。面白い考えじゃな。」
玄蕃の顔に、悪だくみをする時の独特の笑みが浮かんだ。
「しかし、その者どもが、我らのように不正を働く者ではないと申すか? まさか、そのL・G・B・Tとやらが、ワシらにとって煙たい存在になるようなことはあるまいな?」
越後屋は首を振った。
「とんでもない。彼らはただ、自分らしく生きたいと願う、ごく普通の人間でございます。むしろ、彼らを認めぬことで、世の中の軋轢が増え、かえって混乱を招くことになるやもしれません。彼らを味方につければ、世論を味方につけることにもなりましょう。」
玄蕃は顎を撫でながら、しばらく黙考した。そして、やがて顔を上げた時、その目には新たな企みが宿っていた。
「越後屋、そのL・G・B・Tとやら、もっと詳しく調べてみよ。もし、それがワシらの私腹を肥やす手立てとなるのならば、利用せぬ手はない。」
「へえ、かしこまりました、お代官様。さっそく手下の者たちに命じ、詳細を探らせます。」
越後屋は、深々と頭を下げた。彼の心の中では、すでにL・G・B・Tという新たな市場をどう攻略するか、その具体的な計画が動き始めていた。
「しかし、お代官様。彼らを『利用する』というお考えは、現代ではあまりよろしくないとされるようでございます。彼らの尊厳を重んじ、真に理解を示す姿勢が求められるとか。」
越後屋は、玄蕃の機嫌を損ねないように、しかし忠告も忘れなかった。
玄蕃は鼻で笑った。
「尊厳だと? 越後屋、そちはまことお人よしじゃのう。世の中、金と力こそが全て。尊厳など、腹の足しになるものか。」
「へえ、お代官様のおっしゃる通りでございます。しかし、建前だけでも、そのように振る舞っておくのが、現代の世渡り術というものでございまして。」
越後屋は、にこやかに付け加えた。玄蕃は、その言葉に満足したように頷いた。
「ふむ、建前か。それもまた一興。世の中、建前と本音で成り立っておるもの。ワシらが悪事を働く時とて、建前は必要じゃからのう。」
玄蕃は立ち上がり、窓の外の庭に目を向けた。庭には、見事な松の木が植えられ、その下には手入れの行き届いた枯山水が広がっている。
「越後屋、そのL・G・B・Tとやらが、この世をより面白くしてくれるのならば、ワシは歓迎しようぞ。ただし、ワシらの邪魔をするようならば、容赦はせぬがな。」
「へえ、お代官様、ご安心くださいませ。わたくしが、この越後屋宗右衛門、お代官様のお役に立てるよう、尽力いたしますゆえ。」
越後屋は再び深々と頭を下げた。二人の悪党の間に、新たな悪だくみの兆しが芽生え始めていた。それは、現代社会の多様性という概念を、彼らなりの解釈で利用しようとする、恐るべき企みであった。
数日後、越後屋は再び玄蕃の屋敷を訪れた。彼は、前回よりもさらに詳細な情報を携えていた。
「お代官様、L・G・B・Tについて、詳しく調べてまいりました。」
越後屋は、懐から数枚の紙を取り出した。そこには、何やら難しそうな言葉が書き連ねてある。
「ほう、手際が良いな、越後屋。して、何か面白いことはあったか?」
玄蕃は、上機嫌で問うた。越後屋は、得意げに話し始めた。
「へえ、お代官様。まず、このL・G・B・Tという言葉、それぞれに意味がございまして。Lはレズビアン、女が女を好む方々。Gはゲイ、男が男を好む方々。Bはバイセクシュアル、男も女も好む方々。そして、Tはトランスジェンダー、生まれ持った体と心の性が異なる方々を指すそうでございます。」
玄蕃は、うんうんと頷きながら聞いている。
「ふむ、なるほど。それぞれに細かく分かれておるのか。して、その者どもは、どのようなことで困っておるのだ?」
「へえ。最も多いのは、やはり『理解されない』ことへの苦しみでございます。家族や友人、職場の者たちに、ありのままの自分を受け入れてもらえず、苦しむ者が多いとか。また、結婚ができない、子をなすことができないといった、社会的な障壁もございます。」
越後屋は、時折、玄蕃の顔色を窺いながら、慎重に言葉を選んだ。
「さらに申せば、トランスジェンダーの方々は、戸籍上の性別と実際の性が異なるゆえに、日常生活で様々な不便を強いられることも多いとか。公衆浴場や更衣室の利用、あるいは身分証明書の提示など、まことに不便な思いをしておるようでございます。」
玄蕃は、腕を組み、考え込むような仕草をした。
「むう、確かにそれは不便であろうな。しかし、それは彼ら自身が選んだ道ではないのか?」
「へえ、お代官様。現代では、それは『選んだ道』ではなく、『生まれつきの個性』であるという考え方が主流でございます。ゆえに、彼らを差別することは、その個性を否定することになり、許されぬとされております。」
「生まれつきの個性か……。ワシらの時代では、そのような奇妙な個性など、認められぬことであったがのう。」
玄蕃は、ふう、と息を吐いた。
「して、越後屋。その者どもを助けることで、ワシらに何か得はあるのか? ただ助けるだけでは、時間の無駄というものじゃ。」
越後屋は、待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
「へえ、お代官様、ご安心くださいませ。まことにございます。例えば、彼らを対象とした相談所を開設し、そこで高額な相談料を取るとか。あるいは、彼らが安心して暮らせるという触れ込みの長屋を建て、破格の家賃を取るとか。」
玄蕃の目が、ギラリと光った。
「ほう、それは面白い。しかし、そのようなことをして、世間に悪評が立つことはないのか?」
「とんでもございません、お代官様。そこは『LGBTに優しいお代官様』という触れ込みでございます。表向きは、彼らを救済する善行として見せかけ、裏でしっかり儲けを出すのでございます。」
越後屋は、悪びれる様子もなく言い放った。
「例えば、彼らが社会で活躍できるよう、新たな職業訓練所を立ち上げるのもよろしいかと。そこで高額な受講料を徴収し、彼らを『立派な社会人』に仕立て上げると見せかけるのでございます。」
「ふむ、なるほど。まさに、二枚舌というわけか。越後屋、そちはまこと悪知恵が働くのう。」
玄蕃は、満足げに笑った。
「へえ、お代官様のご期待に応えられますよう、日々精進しております。」
越後屋は、さらに続けた。
「また、彼らをモデルとした見世物小屋を興すのも一興かと。もちろん、彼らの尊厳を傷つけぬよう、芸術的な趣向を凝らした見世物と見せかけるのでございます。」
玄蕃は、扇子で膝を叩きながら、さらに深く考え込んだ。
「見世物小屋か……。それはまた、大胆な発想じゃな。しかし、それが本当に金になるのか?」
「へえ、お代官様。現代の世は、珍しいもの、これまで隠されてきたものに、人々は金を使う傾向にございます。彼らの『個性』を最大限に利用すれば、大いに儲けが出ましょう。」
越後屋は、まるで宝石を磨き上げるかのように、言葉を丁寧に紡いだ。
「さらに、お代官様が、彼らの祭りを支援する形をとれば、世間からの評価は高まり、同時に寄付金も集めることができるでしょう。その一部を、わたくしどもが頂戴するわけでございます。」
玄蕃は、大きく頷いた。彼の頭の中では、すでにL・G・B・Tを利用した悪だくみの青写真が、鮮明に描かれていた。
「越後屋、そちはまこと、わが右腕に相応しい男じゃ。そのL・G・B・Tとやら、存分に利用してくれようぞ。」
「へえ、お代官様。この越後屋宗右衛門、お代官様のために、粉骨砕身いたす所存でございます。」
二人の悪党は、にやりと顔を見合わせた。彼らの悪徳の炎は、現代社会の多様性という新たな燃料を得て、さらに勢いを増そうとしていた。
「越後屋、そのL・G・B・Tとやらが、この世をより面白くしてくれるのならば、ワシは歓迎しようぞ。ただし、ワシらの邪魔をするようならば、容赦はせぬがな。」
玄蕃の言葉に、越後屋は深々と頭を下げた。
「へえ、お代官様、ご安心くださいませ。わたくしが、この越後屋宗右衛門、お代官様のお役に立てるよう、尽力いたしますゆえ。」
二人の悪党は、互いに顔を見合わせ、邪悪な笑みを浮かべた。彼らの悪徳の物語は、L・G・B・Tという現代の概念を巻き込み、新たな展開を見せようとしていた。
数週間後、町中には「お代官様公認、L・G・B・Tのための安寧長屋」という触れ込みの建物がひっそりと建てられていた。表向きは、困窮するL・G・B・Tの人々を救うための施設とされているが、その実態は、越後屋が裏で高額な家賃を徴収し、玄蕃がその一部を懐に入れるという、巧妙な悪徳ビジネスであった。
「越後屋、長屋の儲けはどうじゃ?」
玄蕃は、煙管をくゆらせながら、満足げに越後屋に尋ねた。
「へえ、お代官様のおかげでございます。L・G・B・Tと申す方々、まことに住む場所に困っておる者が多いようで、長屋は満室でございます。」
越後屋は、にこやかに答えた。彼の顔には、新たな儲け話が成功したことへの満足感が浮かんでいる。
「ふむ、それは結構。して、その者どもは、長屋で大人しくしておるのか?」
「へえ。当初は、互いに心を閉ざし、人目を避ける者が多かったのですが、同じ境遇の者同士、次第に心を通わせ始めたようでございます。」
越後屋は、少し複雑な表情で続けた。
「彼らは、長屋の中で、自分たちの悩みを打ち明け、互いに支え合っております。まるで、小さな家族のようでございますな。」
玄蕃は、興味なさそうに煙を吐き出した。
「ふん、勝手にやっておれ。ワシらにとっては、金さえ入ればそれで良い。」
「へえ、まことにその通りでございます。しかし、中には、長屋の外に出て、世間に自分たちの存在を訴えようとする者もおりまして……。」
越後屋の言葉に、玄蕃の眉間に皺が寄った。
「なに? それは困るな。ワシらの悪事が露見しては困る。」
「へえ、ご安心くださいませ、お代官様。そのような者には、わたくしが手厚く『忠告』をしておりますゆえ。お代官様の寛大なお心で、彼らがこの長屋に安住できることへの感謝を忘れぬよう、言い聞かせております。」
越後屋は、ニヤリと悪どい笑みを浮かべた。
「ほう、それは見事な手腕じゃな。越後屋、そちはまこと、悪党の鏡じゃ。」
玄蕃は、心底感心したように言った。
しかし、越後屋の心の中には、ある種の葛藤が芽生え始めていた。L・G・B・Tの人々が、長屋の中で見せる、互いを思いやる姿。それは、金儲けのためとはいえ、彼自身がこれまでの人生で見たことのない、純粋な人間の絆であった。
「お代官様、彼らは、まことに純粋な心を持っております。彼らを欺くのは、いささか心が痛むこともございますが……。」
越後屋は、珍しく弱気な言葉を口にした。
玄蕃は、顔をしかめた。
「越後屋、何を弱気なことを申すか。我らは悪党。金のためならば、どんな手でも使うのが常であろうが。そのような感傷など、捨て置け。」
「へえ、お代官様の仰せの通りでございます。しかし、わたくしどもが、彼らの苦しみを逆手に取って儲けていることは、まことにこの胸に突き刺さるようでございます。」
越後屋は、俯き加減に言った。
玄蕃は、越後屋の言葉に、ふ、と鼻で笑った。
「越後屋、そちはまこと、変わった男じゃのう。だが、その感傷が、そちの商売の邪魔になるようならば、容赦はせぬぞ。」
「へえ、心得ております、お代官様。」
越後屋は、深々と頭を下げた。彼の心の中には、悪徳と、そして微かな人間性が複雑に絡み合っていた。L・G・B・Tという、これまでの彼の人生にはなかった概念が、彼の心に新たな波紋を投げかけていたのだ。
玄蕃は、再び煙管をくゆらせ、窓の外に目を向けた。彼の目には、長屋の方角に、微かな光が灯っているのが見えた。
「越後屋、このL・G・B・Tとやら、まことに世の中を変えるかもしれぬな。良い方にも、悪い方にも、両方にじゃ。」
玄蕃の呟きに、越後屋は何も答えなかった。ただ、静かに頭を下げているばかりであった。
L・G・B・Tという現代の多様性の概念は、悪代官と越後屋という二人の悪党の前に、新たな金儲けの機会をもたらすと同時に、彼らの心に微かな変化をもたらす可能性を秘めているようであった。悪と善、金と人情、そして古き因習と新たな価値観が交錯する中で、彼らの物語は続いていくのであった。
この長屋が町にできてから、数ヶ月が経った。表面上は「お代官様公認」の福祉施設として機能しているが、実態は相変わらずの越後屋の搾取であり、玄蕃の懐を潤す源泉であった。しかし、長屋の中に暮らすL・G・B・Tの人々にとっては、それでも外部の冷たい視線から逃れられる唯一の場所であり、彼らなりのコミュニティが形成されつつあった。
ある日の夕暮れ、玄蕃はいつものように越後屋を呼び出した。
「越後屋、最近、長屋から漏れ聞こえる声が、以前とは少し違うように思えるのだが、気のせいか?」
玄蕃は、庭の池に錦鯉が泳ぐのを眺めながら、尋ねた。彼の耳には、かすかに長屋の方から聞こえてくる、笑い声や歌声が届いていた。以前は、もっと陰鬱な雰囲気が漂っていたはずだ。
越後屋は、いつものように平伏しながら答えた。
「へえ、お代官様。お耳がおよろしいようでございます。長屋の者どもは、次第に互いに心を通わせ、今では家族のように暮らしておりますゆえ。」
「家族、だと? 所詮は寄せ集めの者どもであろうが。」
玄蕃は鼻で笑った。しかし、彼の心には、わずかながら好奇の念が芽生えていた。
「へえ。最初は、お代官様の仰せの通り、孤独を抱えた者ばかりでございました。しかし、同じ苦しみを分かち合ううちに、互いに支え合うようになりまして。今では、長屋の中で、小さな祭りを開いたり、助け合って商売を始める者まで現れております。」
越後屋は、どこか感慨深げに語った。彼の言葉には、以前のような冷徹な響きは薄れ、微かな温かみが混じっていた。
「ほう、商売だと? どのような商売じゃ?」
玄蕃は、興味を引かれたように振り返った。
「へえ。例えば、女の心を持つ男が、女物の着物を仕立てております。彼が仕立てる着物は、まことに粋で、町の女たちにも評判でございます。また、男の心を持つ女は、力仕事を引き受けております。彼女が担ぐ荷物は、男衆も舌を巻くほどでございます。」
越後屋は、それぞれの事例を丁寧に説明した。
「ふむ、それは面白い。つまり、彼らの『個性』が、そのまま商売になるというわけか。」
玄蕃の目は、再び金儲けの機会を捉えたかのように光った。
「へえ、まことにその通りでございます。彼らは、これまで日陰に追いやられていたがゆえに、独自の視点や能力を持っております。それを活かせば、既存の商売ではなし得なかった新たな価値を生み出すことができるのでございます。」
越後屋は、熱心に説明した。彼の表情は、もはや悪徳商人というよりも、敏腕な経営者のそれであった。
「なるほど、なるほど。越後屋、そちはまことに商才があるのう。では、その者どもが儲けた金は、しっかりワシらの懐に入ってきておるのか?」
玄蕃は、最も重要な点を確認した。
「へえ、ご安心くださいませ、お代官様。長屋の家賃に加え、彼らの商売からも、しっかりと上納金を頂戴しておりますゆえ。」
越後屋は、にこやかに答えた。彼の言葉に、悪党としての抜け目のなさが感じられる。
「よかろう。越後屋、今後もその者どもを上手く利用し、ワシらを潤わせてくれい。ただし、決して世間に騒ぎを起こすような真似はさせるな。あくまで、陰で儲けるのが我らの流儀ぞ。」
「へえ、かしこまりました、お代官様。この越後屋宗右衛門、お代官様のご期待に沿えるよう、尽力いたします。」
越後屋は、深々と頭を下げた。しかし、彼の心の中には、以前とは異なる感情が芽生え始めていた。L・G・B・Tの人々が、互いに支え合い、困難を乗り越えていく姿。それは、金儲けのためとはいえ、彼らが築き上げた、紛れもない『社会』であった。
玄蕃は、再び池の錦鯉に目を向けた。鯉たちは、優雅に水中を泳ぎ、互いに寄り添い合っている。
「越後屋、世の中というものは、まことに不思議なものじゃのう。これまで悪として忌み嫌われてきたものが、時として新たな富を生み出し、そして、新たな絆を生むこともあるやもしれぬ。このL・G・B・Tとやらも、その一つかもしれぬな。」
玄蕃の言葉は、どこか遠くを見つめるような響きを持っていた。彼自身もまた、L・G・B・Tという概念を通して、世の中の多様性や、人間の持つ無限の可能性の一端に触れたのかもしれない。
「へえ、お代官様の仰せの通りでございます。わたくしも、この年になって、まだまだ知らぬことばかりでございます。」
越後屋は、静かに答えた。彼の心には、悪徳と、そして人間としての微かな葛藤が入り混じっていた。
夜のとばりが降りる中、長屋の方からは、相変わらず明るい声が聞こえてくる。それは、かつて日陰に追いやられていた者たちが、互いの存在を認め合い、未来を切り開こうとする、力強い声であった。
悪代官と越後屋の物語は、L・G・B・Tという新たな概念を通して、彼ら自身の悪徳の形を変化させながら、そして微かな人間性を育みながら、続いていくのであった。
この長屋が町にできてから、一年が過ぎた。当初はひっそりと始まった「お代官様公認、L・G・B・Tのための安寧長屋」は、今や町中にその存在を知られるようになっていた。表向きは相変わらずの福祉施設だが、その裏では、越後屋が仕切る多様な商売が花開き、玄蕃の懐はさらに潤っていた。
「越後屋、近頃、町でL・G・B・Tの者を見かけることが増えたように思うのだが、気のせいか?」
玄蕃は、桜の木の下で茶を飲みながら、越後屋に尋ねた。春風が舞い、桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。
「へえ、お代官様。お気づきでございましたか。長屋の者どもは、今や町中に顔が知られ、それぞれが才覚を活かして商売を営んでおりますゆえ。」
越後屋は、誇らしげに答えた。彼の顔には、これまでになく活き活きとした表情が浮かんでいた。
「ほう、随分と羽振りが良くなったようじゃな。それで、ワシらの懐は、相変わらず潤っておるのか?」
玄蕃は、にやりと笑って尋ねた。
「へえ、お代官様、ご安心くださいませ。長屋の家賃収入に加え、彼らの商売からも、しっかりと上納金を頂戴しておりますゆえ。今では、長屋の外に店を構える者まで現れまして、そこからも徴収を怠っておりませぬ。」
越後屋は、悪びれることなく、堂々と答えた。彼の言葉には、もはや罪悪感など微塵も感じられない。
「ふむ、それは結構。して、世間の評判はどうじゃ? まさか、その者どもを公然と受け入れることに、反対の声が上がっておらぬか?」
玄蕃は、周囲の目を気にするように尋ねた。
「へえ。当初は、そのような声もございましたが、今では『お代官様のおかげで、町が賑わった』と、むしろ感謝の声が上がっております。」
越後屋は、得意げに語った。
「長屋の者どもが営む店は、どれも個性的で、町の活気となっております。特に、女の心を持つ男が仕立てる着物は、京の都でも評判となるほどでございます。また、男の心を持つ女が作る料理は、町の評判となり、連日多くの客で賑わっております。」
玄蕃は、腕を組み、満足げに頷いた。彼の悪徳は、図らずも町に新たな経済効果をもたらし、人々の生活を豊かにしていた。
「なるほど、なるほど。悪事も極めれば、善行となるというわけか。面白いものじゃのう。」
玄蕃は、自嘲気味に呟いた。しかし、彼の顔には、どこか誇らしげな表情が浮かんでいた。
「お代官様、彼らはもはや『L・G・B・T』という枠にとらわれることなく、一人の人間として、町の住人として、当たり前に生活しております。彼らの存在が、この町に新たな風を吹き込み、多様な文化を生み出しております。」
越後屋は、どこか感慨深げに語った。彼の言葉には、彼自身もまた、この変化の波に飲み込まれ、L・G・B・Tの人々への認識を改めざるを得なかったという、複雑な感情が滲み出ていた。
「ふむ。しかし越後屋、忘れるな。ワシらはあくまで悪党。彼らを『利用』しておるに過ぎぬ。情など、決して持つでないぞ。」
玄蕃は、釘を刺すように言った。
「へえ、心得ております、お代官様。しかし、彼らの生き様を見ていると、まことに考えさせられることが多くございます。」
越後屋は、深々と頭を下げた。彼の心の中には、金儲けの欲と、そして微かな人間性が、複雑に絡み合っていた。
玄蕃は、桜の花びらが舞う庭を眺めながら、ふと、遠い昔の自分の姿を思い出した。力と金にしか興味がなかった若き日の自分。しかし、L・G・B・Tという存在に出会い、彼らの生き様を間近で見ることで、彼の世界観は少しずつ変化していた。
「越後屋、このL・G・B・Tとやら、まこと厄介な存在じゃな。ワシらの悪事をも、変えてしまうとは。」
玄蕃は、煙管をゆっくりとくゆらせた。彼の言葉は、悪代官としての彼自身の限界と、そして時代の変化への戸惑いを表しているかのようであった。
「へえ、お代官様。世の中は、常に移り変わるものでございます。わたくしどもも、その変化に対応せねば、生き残ってはいけませぬゆえ。」
越後屋は、静かに答えた。彼の目には、未来を見据えるかのような、強い光が宿っていた。
桜の花びらが舞い散る中、悪代官と越後屋の物語は、L・G・B・Tという現代の多様性の概念を巻き込み、彼ら自身の悪徳の形を変化させながら、そして新たな時代へと、ゆっくりと歩みを進めていくのであった。
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