「越後屋、首尾はどうじゃ?」
黒沼玄蕃の朗々とした声が、奥座敷に響いた。梅雨明け間もない湿気を帯びた夜風が障子を揺らし、蚊遣りの煙がゆらゆらと立ち上る。対座する越後屋宗右衛門は、深々と頭を下げた。
「ははあ、お代官様にはまことに恐縮至極にございます。おかげさまで、抜かりなく準備は整いましてございます。」
宗右衛門はにこやかに、しかしどこか含みのある笑みを浮かべた。その脂ぎった顔は、今宵もまた、新たな企みを巡らせていることを雄弁に物語っていた。黒沼玄蕃は、目の前の茶を一口啜ると、満足げに頷いた。
「うむ。して、例の“新しいもの”とやらは、いよいよ町衆の間にも浸透してきたか?」
玄蕃の問いに、宗右衛門はすかさず膝を進めた。
「まさにその通りでございます、お代官様。当初は物珍しさから一部の好事家が手を出す程度と見ておりましたが、今や飛ぶ鳥を落とす勢いでございます。あの『映え』と申しますか、己が日々の暮らしを人目に晒し、褒めそやされることに喜びを感じる者が、かくも多いとは正直驚きでございました。」
宗右衛門の言葉に、玄蕃は喉を鳴らして笑った。
「くくく、承認欲求とやらを満たすために、手間暇を惜しまぬとは。愚かなる町衆よ。だが、その愚かさこそが、我らの糧となる。越後屋、具体的にどのような手立てを講じたのだ?」
玄蕃は興味津々といった様子で、宗右衛門を促した。宗右衛門は扇子を広げ、ゆっくりと口を開いた。
「ははあ。まずは、『見栄えのする場所』の確保に注力いたしました。たとえば、この度、お代官様のお口添えで手に入れました、あの荒れ果てた山奥の滝。あそこに、季節ごとに花を植え、小さな茶屋を設えましてございます。」
「ふむ、あの寂れた滝か。まさかあそこが金になるとはな。」
玄蕃は怪訝な顔で言った。宗右衛門は得意げに言葉を続けた。
「お代官様、それが左様にございます。あそこに茶屋を設え、『ここでしか手に入らぬ限定の団子』と称し、わざと高値で売るのです。町衆は、滝の美しさ、団子の珍しさ、そして何より『ここに来た』という証を残すために、こぞって足を運び、競ってそれを記録し、互いに見せびらかすのでございます。」
「なるほど、記録か。それがその『映え』とやらにつながるのだな。」
玄蕃は手を叩いて納得した。
「左様にございます。彼らは、その記録を『世間様に見てもらう場』に投稿し、『いいね』とやらを競い合うのでございます。より多くの『いいね』を得た者は、さも偉くなったかのように振る舞い、得られぬ者は焦燥感を覚える。その繰り返しで、彼らはますます我らの用意した場所へと足を運び、我らの仕掛けた品々へと手を伸ばすようになるのでございます。」
宗右衛門はにんまりと笑った。その顔は、町衆の心理を掌で転がすことに喜びを見出しているかのようだった。
「越後屋、そちはまことによく人の心を見抜いておる。して、その『いいね』とやらをより多く集めるには、どのような工夫があるのだ?」
玄蕃の問いに、宗右衛門はさらに詳しく説明を始めた。
「ははあ。それがまた、巧妙な仕掛けでございまして。我々は、『流行』というものを意図的に作り出すのでございます。たとえば、特定の『構図』や『小道具』を用いることで、より『いいね』が集まりやすくなる、といった風評を流すのでございます。」
「ほう、流行をか。具体的には?」
「例えば、この度、御用商人を通じて、わざとらしいほどに派手な色彩の『日傘』を大量に製造させました。そして、あの滝の茶屋で『この日傘を持って写真を撮ると、より多くいいねがもらえる』といった噂を流すのです。すると、町衆はこぞってその日傘を買い求め、それを持参して滝へ向かい、わざわざ不自然な格好で写真を撮り、それを世間に晒すのでございます。」
玄蕃は思わず膝を打った。
「なるほど! その日傘の売上もさることながら、その日傘を持って滝を訪れる者が増えれば、団子の売上も自然と伸びるというわけか!」
「まさに左様にございます、お代官様。さらに、我らは『有名人』と称する者たちを雇い、彼らに率先してその日傘を持たせ、滝で写真を撮らせて世間に公開させるのでございます。すると、町衆は『あの有名人と同じものを!』とばかりに、我らの仕掛けに飛びつくのでございます。」
「有名人か…それはまた、巧妙な手立てよな。」
玄蕃は感心しきりだった。宗右衛門はさらに続けた。
「他にも、『期間限定』という言葉も彼らにはよく効きます。『今しか見られない景色』『今しか手に入らない品』と触れ回れば、たとえ取るに足らぬものでも、彼らは我先にと飛びつくのでございます。人間の『逃したくない』という欲求を刺激するわけですな。」
「ふむ、限定という言葉には、確かに抗いがたい魅力がある。だが、それだけでは終わるまい? 越後屋、そちはもっと深謀遠慮があるはずだ。」
玄蕃の鋭い問いに、宗右衛門はニヤリと笑った。
「さすがはお代官様。お見通しでございます。我々は、この『承認欲求』を、新たな情報収集の手段としても利用しようと考えております。」
「ほう、情報収集とな?」
玄蕃は身を乗り出した。
「ははあ。町衆が自ら進んで己の日常、ひいては己が住まいの様子までを、事細かに世間に晒す。これほど効率の良い情報収集の手段はございません。我々は、彼らが公開する情報から、誰が、どこに住み、どのような生活をしているのか、どのようなことに興味を持っているのかを、事細かに把握できるのでございます。」
宗右衛門の声には、確かな自信と、悪辣な企みがにじみ出ていた。
「なるほど、つまりは町衆の生活を丸裸にするというわけか。その情報を使って、さらに金儲けを企むと?」
玄蕃の言葉に、宗右衛門は深く頭を下げた。
「左様にございます、お代官様。例えば、ある者が特定の高価な着物に興味を示していることが分かれば、それとなくその着物を扱う呉服屋に話を通し、その者へ『特別に値引きをする』と持ちかける。あるいは、ある者が旅行に興味があることが分かれば、提携している旅籠屋の情報を流す、といった具合に。彼らの『欲しいもの』をピンポイントで提供することで、さらなる利潤を追求できるのでございます。」
玄蕃は腕を組み、唸った。
「それはまこと、恐ろしい策よな。だが、越後屋、そのようなことを続けていれば、いずれ町衆にも勘付かれるのではないか? 彼らも馬鹿ではないぞ。」
「ははあ、その点もご安心ください、お代官様。我々は、この『新しいもの』の仕組みそのものにも手を加えるのでございます。」
宗右衛門は、さらに低い声で続けた。
「我々は、彼らが『いいね』を得やすい『正解の形』を意図的に提示し、それに沿わない者には『いいね』が集まりにくいように仕向けるのでございます。すると、彼らはより多くの『いいね』を得るために、我々が示す『正解』へと自ら進んで従うようになります。彼らは、我々に操られているとは夢にも思わぬでしょう。むしろ、我々が示す『正解』こそが、彼らが望む『承認』への道だと信じ込むはずでございます。」
宗右衛門の言葉には、人間の心理の闇を巧みに利用する、冷酷な計算が垣間見えた。
「つまり、町衆を家畜のように飼いならすというわけか。越後屋、お主はまことに恐ろしい男よな。だが、その恐ろしさが、わしにとってはまことに頼もしい。」
玄蕃は満足げに、そして愉しげに笑った。宗右衛門もまた、満面の笑みを浮かべた。
「お代官様のお言葉、まことに光栄にございます。しかし、これだけではございません。我々は、この『承認欲求』を煽ることで、新たな借財を生み出すことも可能でございます。」
「ほう、それはまた、どういう手口だ?」
玄蕃は目を輝かせた。
「ははあ。町衆の中には、より多くの『いいね』を得るために、無理をして高価な品物を買ったり、贅沢な旅行に出かけたりする者がおります。しかし、彼らは皆、裕福な者ばかりではございません。そこで我々は、『承認欲求を満たすための特別融資』と称し、高金利で金を貸し付けるのでございます。」
宗右衛門は、悪どい笑みを浮かべた。
「彼らは、一時的に『いいね』を得て満足いたしますが、やがて返済に窮する。その時こそ、我々が彼らの財産をかすめ取る絶好の機会となるのでございます。」
玄蕃は手を打ち鳴らした。
「見事! 見事な策よ、越後屋! 承認欲求という見えぬ糸で町衆を操り、金まで巻き上げるとは。これぞまさに、悪の華よな!」
「お代官様のご期待に沿えまして、まことに幸甚にございます。」
宗右衛門は深々と頭を下げた。
「しかしお代官様、これで終わりではございません。我々は、この『新しいもの』を、さらに拡大させようと目論んでおります。次は、『見栄』を張りたいという町衆の心理を巧妙に利用するのです。」
「見栄、か。それはまた、どのような仕掛けを?」
玄蕃の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。宗右衛門は、再び扇子を広げ、ゆっくりと顔を上げた。
「ははあ。我々は、『限られた者しか入ることのできない場所』を作り、そこに『特別な品々』を用意するのでございます。そして、その場所に足を踏み入れた者のみが、それを『自慢できる』という仕組みを構築するのです。」
「なるほど、それはまた、新たな承認欲求を生み出すというわけか。」
玄蕃は膝を叩いた。
「左様にございます。そして、そこに入るためには、それなりの銭が必要となる。そうすることで、さらなる富が我らの懐に転がり込むのでございます。町衆は、自らの見栄と承認欲求のために、進んで我らに金を献上することになるでしょう。この『新しいもの』は、底なしの沼にございます。どこまでも、どこまでも、我らが望むだけ、金を生み出し続けることでしょう。」
宗右衛門は、さも満足げに、そして冷酷に言い放った。その言葉には、町衆の愚かさへの嘲笑と、己の悪徳への揺るぎない自信が込められていた。
黒沼玄蕃は、宗右衛門の言葉を聞き終えると、満足げに目を閉じ、深く息を吐いた。
「越後屋、そちはまことに、わしにとってかけがえのない存在よ。この『新しいもの』とやら、わしとそちの手にかかれば、天下の金は我らがものとなる。町衆が承認欲求とやらで騒ぎ立てる間、我らはその騒ぎを肴に、悠々と酒を酌み交わすことができるというわけだ。」
玄蕃は、にやりと笑い、宗右衛門の前にあった茶碗に酒を注いだ。
「さあ、越後屋。今宵は、我らの未来の繁栄を祝して、一杯やろうではないか。」
「ははあ、お代官様、ありがたき幸せにございます!」
宗右衛門は震える手で茶碗を受け取り、深く頭を下げた。二人の間に、悪の饗宴が始まろうとしていた。障子の外では、夏の夜風が、これから町を覆い尽くすであろう闇を予感させるかのように、不気味に吹き荒れていた。
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