「越後屋、今日はいささか暇を持て余しておる。何か面白い話はないものか?」
黒沼玄蕃は、上質な座布団にふんぞり返りながら、手酌で冷酒を傾けた。梅雨の晴れ間、城下の喧騒はどこか遠く、屋敷の奥座敷にはひんやりとした静寂が満ちていた。
「へへ、お代官様。面白い話と申しますと、昨日、若衆が都で仕入れてきた妙な話がございますが…」
越後屋宗右衛門は、いつものように低姿勢で、しかしその眼にはぬらりとした光を宿しながら、玄蕃の盃に酒を満たした。
「ほう、都の妙な話とは、一体どんなものだ? また吉原あたりの与太話か?」
玄蕃は鼻で笑った。
「いえいえ、滅相もございません。今回は、吉原とはまた趣の異なる、新しい色の商売とでも申しましょうか。なんでも『ほすとくらぶ』と申す場所があるそうで…」
越後屋は、わざとらしく言葉を区切り、玄蕃の反応を窺った。玄蕃は、ぴくりと眉を上げた。
「ほすとくらぶ? 聞き慣れぬ名だな。それはまた、どのような場所なのだ?」
「それがですな、お代官様。一言で申せば、男が女を接待し、酒を飲ませて金をむしり取る、とんでもない場所でございます」
越後屋の言葉に、玄蕃は思わず膝を叩いた。
「ほう! 男が女を、だと? それはまた、奇妙な。我らの世では、女郎が男を相手にするのが常道。それが逆とは、世も末だな、越後屋」
玄蕃は面白そうに笑った。しかし、その笑みの中には、かすかながらも、商売への鋭い嗅覚が潜んでいるのが越後屋には見て取れた。
「へい。しかし、この『ほすとくらぶ』とやら、なかなかに巧妙な仕組みでございまして。男どもは皆、顔立ちも良く、口も達者。女の心を弄ぶ術に長けていると申します」
「女の心を弄ぶ、か。それはまた、我らの悪事と相通ずるものがあるな」
玄蕃はにやりと口元を歪めた。
「まさにその通りでございます、お代官様。まず、客となる女どもは、店に入るとすぐに、その『ほすと』と呼ばれる男たちに取り囲まれるそうでございます。彼らは女どもを『お姫様』などと持ち上げ、甘い言葉で囁く。まるで、蝶が蜜に群がるがごとくでございますな」
「ふむ、なるほど。つまり、女どもは普段の生活で得られぬ『特別扱い』という蜜に釣られるわけか」
玄蕃は腕を組み、唸った。
「ご明察でございます。そして、そこからが『ほすと』と呼ばれる男の見せ所でございますな。あの手この手で酒を勧め、高額な酒をボトルで入れさせる。一杯の酒が、とんでもない値になるそうで…」
越後屋は身を乗り出して説明した。玄蕃の目が細められた。
「高額な酒、か。それはまた、我らが年貢を吊り上げるが如き手口だな。しかし、女どもはなぜ、そんな高値の酒を喜んで飲むのだ? よほど馬鹿なのか?」
「いえ、決して馬鹿ではございません。彼女たちは、その『ほすと』と呼ばれる男に、自分だけを見てほしい、特別な存在だと思われたい、という一心で金を出すのでございます」
「ほう、承認欲求、とでも申すか。人間の心の弱みに付け込むとは、なかなかやるではないか、その『ほすと』ども」
玄蕃は感心したように頷いた。
「そしてですな、お代官様。彼らは女どもに『色恋』をちらつかせるのでございます。決して本気にはならぬと分かっていながら、甘い言葉で夢を見させる。そして、その夢を追いかけるために、女どもはさらに金を使う。まるで蟻地獄に落ちたがごとく、抜け出せなくなるのでございます」
越後屋の言葉に、玄蕃は深く頷いた。
「色恋か。それはまた、罪深い手口よな。わしら悪代官は、直接的に民から銭を巻き上げるが、奴らは女の心に付け入り、自ら進んで金を差し出させる。ある意味、我らよりも巧妙な悪党かもしれぬ」
玄蕃の顔に、いつもの悪辣な笑みが浮かんだ。
「そして、その『ほすと』どもは、自分たちの売上を競い合うのでございます。たくさん金を使わせた者ほど、店での地位が上がり、さらに多くの女どもを相手にできる。まるで、我らが役職を競うがごとくでございますな」
「なるほど、競争原理か。それはまた、人を動かす良い仕組みだ。しかし、越後屋、その『ほすとくらぶ』とやらは、一体誰が仕切っておるのだ? その背後には、必ずや大元がいるはずだ」
玄蕃は鋭い眼光で越後屋を見据えた。
「へい、お代官様。それがまた、複雑でございまして。表向きは店の主人という者がおりますが、その裏には、さらに大きな組織が控えていると聞きます。なんでも『暴力団』と申す者たちが関与しているとか…」
越後屋は声を潜めた。
「暴力団、か。ふむ、世の中は変われど、悪の根は変わらぬものだな。我らがヤクザと手を組むがごとく、彼らもまた、そういった者たちと結託して金を稼いでいると」
玄蕃は天井を仰いだ。
「そして、さらに驚くべきは、その『ほすとくらぶ』では、女どもが男たちに貢ぐために、自らもまた、怪しげな商売に手を出すことがあると申します」
越後屋は、さらに耳打ちするように続けた。
「ほう! それはまた、一体どのような?」
玄蕃は身を乗り出した。
「体を売ったり、詐欺まがいの商売に手を出したり…中には、自分の親から金を騙し取る者までいるそうでございます」
越後屋の言葉に、玄蕃の顔がにわかに曇った。
「なんと…そこまでして、男に貢ぐのか。愚かな。しかし、それほどまでに人を狂わせるものなのか、その『ほすとくらぶ』という場所は」
玄蕃は腕を組み、深く考え込んだ。
「へい。まさに麻薬のようなものでございましょう。一度ハマれば、なかなか抜け出せない。そして、最終的には身も心もボロボロになり、借金まみれになる者も少なくないと申します」
「うむ…それはまた、哀れな話だ。しかし、越後屋、その話を聞いて、わしは一つ確信したぞ」
玄蕃は顔を上げ、越後屋の目をまっすぐに見た。
「と申しますと?」
「世が変わり、形が変わろうとも、人の欲と愚かさは変わらぬ、ということよ。そして、その欲と愚かさに付け込む我らのような悪党が、いつの世も存在し続ける、ということだ」
玄蕃は不敵な笑みを浮かべた。
「お代官様のおっしゃる通りでございます。この『ほすとくらぶ』とやらも、結局は人の心の隙間に付け込む商売。我らがやっていることと、本質は何も変わりませぬ」
越後屋もまた、満面の笑みを浮かべた。
「しかし、越後屋、わしは一つ気になることがある。その『ほすとくらぶ』とやら、若い女どもばかりが客になるのか? それとも、年増の女どももいるのか?」
玄蕃は、不意に真顔に戻った。
「へい、それがですな、若い者から年増まで、様々だと聞きます。中には、かなりの地位にある者や、金持ちの女将などもいるとか…」
越後屋は、にやにやと笑いながら答えた。
「ほう、それはまた面白い。つまり、どの年代の女も、心の隙間を抱えているということか。それはまた、我らが悪事を働く上で、大いに参考になる話だ」
玄蕃は満足げに頷いた。そして、盃を差し出した。
「越後屋、その『ほすとくらぶ』とやら、もう少し詳しく調べてみよ。もしかしたら、我らの新しい金儲けの種になるかもしれぬ」
「へへ、お代官様。お任せください。早速、若衆を都に送り込み、隅々まで調べてまいります。そして、もし新たな悪事の種が見つかれば、真っ先に玄蕃様にご報告いたします」
越後屋は深々と頭を下げた。その顔には、新たな悪事に胸躍らせる、いつもの卑しい笑みが浮かんでいた。玄蕃もまた、満足げに冷酒を飲み干した。
「うむ。期待しておるぞ、越後屋。世の移ろいとともに、悪事もまた進化する。我らもまた、その変化に対応せねばならぬからのう。さて、もう一杯」
「へへ、喜んで」
越後屋は再び、玄蕃の盃に酒を満たした。屋敷の奥座敷には、悪代官と悪徳商人の、いつもの悪だくみの時間が流れていくのだった。
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