悪代官と越後屋の密談「受験競争」

「これ、越後屋」

黒沼玄蕃は、上座にどっかと座り、手元の茶碗を静かに置いた。越後屋宗右衛門は、その隣に座布団一枚隔てて控えている。いつもなら、甘い饅頭と上等な茶が並ぶこのひとときも、今日はどこか重い空気が漂っている。

「ははあ」

宗右衛門はかしこまって答える。盆に載せられた茶器も、いつもの豪華絢爛なものとは違い、質素なものだ。

「最近、世間では『受験競争』なるものが流行りだしているそうではないか。聞けば、若者たちがこぞって学問の場を求めて争い、そのために親までもが血眼になっているとか」

玄蕃の声は、いつになく低い。宗右衛門は、すかさず相槌を打つ。

「お代官様、まさしくその通りでございます。私のところにも、子を持つ親御さんたちが、どうにかして我が子を良い学問の場に入れてやりたいと、連日拝み倒しに来る始末でございます」

「ふむ……。越後屋、そちはどう思う? この『受験競争』とやら、果たして世のため人のためになるものなのか、それとも、ただいたずらに世を乱す悪しき風習なのか」

玄蕃は鋭い眼光で宗右衛門を見据えた。宗右衛門は、一瞬たじろいだが、すぐにいつもの商人としての顔に戻る。

「お代官様、わたくしごときが恐れながら申し上げますれば、この『受験競争』、決して一概に悪とは言い切れません。むしろ、使い方によっては、我らが私腹を肥やすための新たな金のなる木となり得ると、この宗右衛門、確信しております」

玄蕃は眉をひそめた。

「ほう? 越後屋、その心は?」

宗右衛門は、にやりと笑った。

「お代官様、考えてもみてください。学問の場に入るために、親たちは高額な授業料を払い、さらには『塾』などという、学問を教える場にも通わせると聞きます。それだけではございません。良い学問の場に入るためには、良い『先生』を見つけ、その先生に特別な『指導』を受けさせることが必要だとか。その指導料たるや、目が飛び出るほどだと申します」

玄蕃は、ふむ、と顎に手をやった。

「なるほど、つまり、この『受験競争』は、新たな『商機』を生み出していると申すか」

「左様でございます、お代官様。これまで、我らが手掛けてきたのは、主に米や酒、あるいは高価な呉服などでございました。しかし、この『受験競争』は、これまでとは全く異なる新たな分野、すなわち『教育』という分野に、我らが介入する余地を与えてくれたのでございます」

宗右衛門は、身を乗り出す。

「例えば、お代官様。学問の場に入るためには、『試験』なるものを受ける必要があると聞きます。この試験に合格するためには、特別な『教材』が必要となるでしょう。その教材の出版に、越後屋が一枚噛めば……」

玄蕃は、にやりと笑った。

「越後屋、なかなか目の付け所が良いではないか。しかし、それだけではないだろう? 他に何か、この『受験競争』から利を得る方法は無いものか」

宗右衛門は、得意げに語り始めた。

「お代官様、実は……。学問の場に入るためには、ただ学力があるだけでは足りぬと申します。どうやら、『面接』なるもので、その者の人柄や熱意なども見られるとか。そこで、越後屋は考えました。この『面接』で、いかにして我が子を良く見せるか、その『作法』や『話し方』を指南する『指南役』を雇うのはいかがかと」

玄蕃は、さらに興味をそそられた。

「ほう、指南役か。それはまた、面白い。だが、そんなものに金を出す者がいるのか?」

「それがいるのでございます、お代官様。親というものは、我が子のためとなれば、惜しみなく金を使うもの。ましてや、将来を左右するかもしれない大事な局面となれば、なおさらでございます。この指南役は、これまでも様々な商売で人を欺いてきた、いわば『詐欺師』上がりの者を雇い入れれば、口八丁手八丁で、親御さんたちから金を巻き上げることができましょう」

玄蕃は、手を叩いて笑った。

「越後屋、そちはやはり、悪の才覚に長けておるわ。しかし、それだけでは飽き足らぬ。もっと、根本的なところで、この『受験競争』を牛耳ることはできぬものか」

宗右衛門は、少し考えた後、玄蕃に耳打ちするように声を潜めた。

「お代官様……。この『受験競争』を牛耳るには、その『試験』を牛耳るのが一番でございます」

玄蕃の表情が変わった。

「越後屋、それはまさか……」

「左様でございます、お代官様。試験の問題を事前に知ることができれば、あるいは、試験の合否を我らが意のままに操ることができれば……」

宗右衛門は、そこまで言うと、玄蕃の顔色をうかがった。玄蕃は、目を閉じ、しばし沈黙した。そして、ゆっくりと目を開き、宗右衛門を見据えた。

「越後屋、そちは、これまでも数々の悪事を働いてきたが、これほどの悪だくみは、前代未聞ぞ」

宗右衛門は、ひるまずに答える。

「お代官様、これもすべては、お代官様のため、ひいては、我らが栄華のため。それに、世間では『裏口入学』などと申しまして、金を積んで学問の場に入り込む者もいると聞きます。我らがやることは、それと大差ございません」

玄蕃は、腕を組み、深く考え込んだ。

「しかし、越後屋。もしそれが露見すれば、我らの立場は危うくなる。世間からの非難は避けられぬだろう」

「お代官様、ご安心くだされ。我らが手を汚す必要はございません。学問の場の者どもに、うまい汁を吸わせる代わりに、我らの意のままに動かすのです。彼らは、権威に弱く、金に目がくらむ者ばかり。少しばかり袖の下を渡せば、喜んで我らの手先となりましょう」

宗右衛門は、悪どい笑みを浮かべた。玄蕃は、その笑みを見て、思わず身震いした。

「越後屋、そちは、まこと恐ろしい男よ。だが、その悪知恵、玄蕃、嫌いではないぞ」

玄蕃は、高笑いした。宗右衛門も、つられて笑う。

「では、お代官様。さっそく、この『受験競争』に乗り出す準備に取り掛かりましょうか」

「うむ。頼んだぞ、越後屋。この『受験競争』を食い物にし、さらに多くの富を築くのだ」

二人の悪党の企みは、こうして始まった。

しかし、玄蕃は、ふと真顔に戻った。

「越後屋、そちの言うことはもっともだ。この『受験競争』は、我らにとって新たな金のなる木となるだろう。だが、玄蕃、気になることがある」

宗右衛門は、首をかしげた。

「何か、お気に召さないことでもございましたか、お代官様?」

「いや、そうではない。越後屋、そちは、この『受験競争』で、多くの者が苦しむことになるとは思わぬか? 学問の場に入れなかった若者たちは、どうなるのだ? 親たちは、多額の金を使い果たし、それでも報われなかった時、何を思う?」

玄蕃の言葉に、宗右衛門は一瞬ひるんだ。しかし、すぐに持ち前の商魂を発揮する。

「お代官様、そのようなことは、我らが知ったことではございません。世の中には、勝者と敗者がいるもの。敗者のことまで考えていられましょうか。それに、学問の場に入れなかった者たちには、別の道がございます。我らが手掛けております、日雇いの仕事でも斡旋すれば、路頭に迷うことはございません」

「ふむ……。たしかに、そちの言うことも一理ある。だが、この『受験競争』が、ただ金の力で左右されるようになるならば、真に学問を志す者たちが、道を閉ざされることにもなりかねぬ。それでは、国の未来にとっても、よろしくないのではないか?」

玄蕃は、珍しく真剣な表情をしていた。宗右衛門は、少し戸惑った。

「お代官様、それは……。しかし、世の中、金がなければ何もできぬ世の中。学問とて、例外ではございません」

「いや、越後屋。玄蕃、そうは思わぬ。真の学問とは、金で買えるものではないはず。真の才覚を持つ者が、正当に評価され、その才能を伸ばせる世であるべきではないか?」

宗右衛門は、玄蕃の言葉に、どう答えてよいか分からなかった。これまで、玄蕃が悪事を働くことに、何の躊躇もなかった宗右衛門だが、この時ばかりは、玄蕃の言葉の重みに、口をつぐんだ。

「越後屋、そちは、これまで多くの悪事を共に働いてきた。だが、玄蕃、そちに問いたい。そちの心に、一片の良心も残されておらぬのか?」

玄蕃の言葉は、宗右衛門の心に、ズシリと響いた。宗右衛門は、目を伏せた。

「お代官様……。わたくしは、ただ、お代官様のお役に立ちたくて……。そして、越後屋を、もっと大きくしたくて……」

宗右衛門の声は、か細かった。玄蕃は、静かに宗右衛門の言葉を聞いていた。

「越後屋、玄蕃はな、そちが悪事を働くことを咎めてはおらぬ。むしろ、その才覚を高く評価しておる。だが、悪事にも、限度というものがある。今回の『受験競争』にまつわる企みは、あまりにも世を乱し、人々の心を荒廃させるもの。それは、玄蕃の目指す悪ではない」

玄蕃は、そう言い切った。宗右衛門は、顔を上げた。

「では、お代官様は、この企みを……」

「うむ。この企みは、中止とせよ。学問の場は、真に学ぶことを志す者たちのためにあるべきだ。そこに、我らが悪しき手を伸ばすことは、許されぬ」

宗右衛門は、呆然とした。これまで、どんな悪事も容認してきた玄蕃が、ここまで明確に拒否することに、戸惑いを隠せない。

「お代官様……。しかし、それでは、我らは、この『受験競争』から、何の利益も得られないことに……」

「越後屋、目先の金に囚われるな。世間を乱す悪事は、いつか必ず自分たちに跳ね返ってくるもの。玄蕃はな、長く悪事を働くためには、ある程度の『節度』も必要だと考えておる」

玄蕃は、宗右衛門の肩をポンと叩いた。

「越後屋、そちの悪知恵は、もっと別のところで活かせ。例えば、貧しい者たちが、少しでも良い暮らしができるよう、新たな商売を生み出すとか。いや、それはやりすぎか。ふふふ……」

玄蕃は、冗談めかして笑ったが、その目は真剣だった。宗右衛門は、玄蕃の言葉に、これまで感じたことのない感情が湧き上がってくるのを感じた。それは、もしかしたら、『良心』と呼べるものだったのかもしれない。

「お代官様……。この宗右衛門、お代官様の御心、しかと承知いたしました。この『受験競争』にまつわる企みは、直ちに中止いたします」

宗右衛門は、深々と頭を下げた。玄蕃は、満足そうに頷いた。

「うむ。それで良い。越後屋、そちは、玄蕃にとって、かけがえのない悪友だ。これからも、共に悪事を働くこともあるだろう。だが、今日のこと、忘れるでないぞ」

「ははあ。一生、忘れませぬ」

宗右衛門は、心からそう答えた。

その日以来、黒沼玄蕃と越後屋宗右衛門は、以前と変わらず悪事を働いていた。しかし、宗右衛門の悪事には、どこか以前にはなかった、わずかながらも「節度」のようなものが感じられるようになったという。

ある日の夕暮れ時、いつものように酒を酌み交わしながら、玄蕃がポツリとつぶやいた。

「しかし、越後屋、あの『受験競争』とやらは、未だに世間で続いているようだな。我らが手を引いたところで、世の習いとは、なかなか変わらぬものよ」

宗右衛門は、しみじみと頷いた。

「左様でございます、お代官様。しかし、あの時、お代官様のお言葉がなければ、この宗右衛門、今頃、とんでもない悪事に手を染めておりましたでしょう。あの時のことは、今でも、この宗右衛門の胸に深く刻まれております」

玄蕃は、にやりと笑った。

「そうか。それは玄蕃も嬉しいぞ。越後屋、そちが、ほんの少しでも『善』の心を持ったのならば、それもまた、玄蕃の悪事の成果と言えよう」

宗右衛門は、玄蕃の言葉に、思わず吹き出した。

「お代官様、それは、悪事の成果と申しますか……」

「ふふふ……。どうとでも言うが良い。だが、越後屋、一つだけ確かなことがある。この世から、真に学問を志す者たちの灯が消えることだけは、あってはならぬ。それが、玄蕃の、ささやかな願いだ」

玄蕃は、遠くの空を眺めながら、静かにそう言った。宗右衛門は、その言葉を、ただ静かに聞いていた。悪代官と悪徳商人。二人の奇妙な友情は、この日もまた、深まっていった。そして、現代の「受験競争」は、彼らの間で、ある種の教訓として、記憶されることになったのである。

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