悪代官と越後屋の密談「高血圧の基準値」

しとしとと雨が降り続く、肌寒い晩のこと。黒沼玄蕃の屋敷の奥座敷では、障子戸の向こうで庭木の枝が風に揺れる音が、密談の静けさを一層際立たせていた。囲炉裏の炭が赤々と燃え、時折はぜる音が二人の会話の合間に響く。向かい合って座るのは、この地の悪代官として知られる黒沼玄蕃と、彼に取り入り私腹を肥やす商人、越後屋宗右衛門であった。

「越後屋、よう来たな。このような悪天候の中、ご苦労なことよ」

玄蕃がにやりと笑うと、越後屋は深々と頭を下げた。

「お代官様には、いつもながらのご配慮、恐悦至極にございます。この宗右衛門、お代官様のお呼びとあらば、いかなる嵐の中とて馳せ参じまする」

越後屋のへりくだった態度に、玄蕃は満足げに頷いた。

「うむ、そちのその忠誠心、見上げたものよ。さて、本日は、いよいよ本格的に取り組むべき、大きな儲け話について、そちと膝を突き合わせて話したかったのだ」

玄蕃の言葉に、越後屋の目がぎらりと光った。彼は身を乗り出すようにして、玄蕃の次の言葉を待った。

「お代官様、この宗右衛門、どのようなことでもお役に立てるよう、万全の準備を整えておりまする」

「うむ。実はな、越後屋。近頃、世間では『健康』などというものが、ことさらもてはやされておる。特に、病になる前に防ぐ『予防医学』とやらが、医者どもを中心に騒がれておるようではないか」

「は、確かに。最近では、体調を崩す前に医者に診てもらう者も増えているとか。しかし、それがしがない商人の拙者には、どのような儲け話に繋がるのか、見当もつきませぬが……」

越後屋は小首を傾げたが、玄蕃は余裕の笑みを崩さない。

「ふふふ、そこが越後屋、そちのまだ見ぬ境地よ。良いか。医者どもが患者から金を巻き上げるには、病人が多ければ多いほど良い。だが、病人が増えすぎれば、それはそれで面倒なことにもなる。そこでだ。病気になる前の『予備軍』というやつを増やせば良いのだ」

「予備軍、でございますか?」

「そうだ。例えば、近頃『高血圧』というものが、やたらと取り沙汰されておるだろう? 血圧が高いと、脳卒中だの心臓病だのになる、などと医者どもが不安を煽っておる。しかし、一体どれくらいの血圧からが『高い』と申すのか、その基準は、誰が決めると思う?」

玄蕃の問いに、越後屋ははっと息をのんだ。

「そ、それは……やはり、医者の偉い方々が、学術的な見地から決めるものでは……?」

「愚か者めが!」

玄蕃はぴしゃりと言い放った。

「そちも長いこと、わしと悪事を働いてきたというのに、まだそのような世迷い言を信じておるのか! 基準など、いくらでも変えられるわ! 学術的な見地とやらも、結局は人の都合でいかようにも解釈できるもの。そこにこそ、我らが付け入る隙があるのだ!」

玄蕃の言葉に、越後屋の顔色が変わる。

「なるほど……お代官様は、まさか、その高血圧の基準値とやらを……?」

「そのまさかよ、越後屋! 現在の基準値では、少々厳しすぎると思うてな。もう少し緩めても良いのではないかと、医者どもに働きかけている最中なのだ」

越後屋は目を丸くした。

「基準値を緩める、と申されますと、それはつまり、これまで高血圧と診断されていた者が、そうではなくなる、ということでは?」

「その通りだ! 現在、高血圧と診断されて薬を飲んでおる者は、それなりに金を落としてくれる。だが、彼らはすでに『患者』なのだ。そこから絞り取れる金には限りがある。だがな、越後屋。今の基準値では、高血圧の一歩手前、いわゆる『予備軍』の数が少ない。これを増やせば、どうなると思う?」

玄蕃は不敵な笑みを浮かべた。

「予備軍が増えれば、医者どもは彼らを『患者の一歩手前』と見なし、薬を飲ませたり、健康器具を売りつけたり、健康食品を推奨したりと、様々な手段で金を吸い上げようとするだろう。そして、その薬や器具、食品を供給するのは、他ならぬそちの越後屋、というわけだ!」

越後屋の顔に、みるみるうちに貪欲な光が宿る。

「お代官様! まこと、お代官様の知恵には、この宗右衛門、足元にも及びませぬ! では、具体的には、どのような基準値を目指すのでございますか?」

「うむ。現在、診察室での血圧が収縮期血圧140mmHg以上または拡張期血圧90mmHg以上が高血圧とされておるな。これをもう少し、いや、かなり下げたい。例えばだ。収縮期血圧130mmHg以上、拡張期血圧85mmHg以上、などとすれば、どうだ? これまで正常とされてきた者まで、一気に『予備軍』へと転落する。そして、医者どもは彼らに不安を煽り、『今のうちに手を打っておきましょう』と、薬や治療を勧めるのだ」

玄蕃は、獲物を狙う鷹のような目で越後屋を見た。

「その『予備軍』がどれほどの数になるか、そちには想像もつくまい。現在の日本の人口は一億を超えておる。そのうち、高血圧の者が四千万人以上とされているが、それはあくまで現在の基準での話だ。この基準を下げれば、一気に倍増、いや、三倍にすら膨れ上がるかもしれぬ。数千万の新たな『お客様』が生まれるのだぞ、越後屋!」

越後屋は興奮のあまり、ごくりと唾を飲み込んだ。

「お、お代官様……それはまさに、濡れ手で粟、いや、荒稼ぎでございます! しかし、そのような大それたことが、まことに可能なのでございましょうか? 医者どもが、素直にそれに従うものなのか……」

「心配するな、越後屋。医者どもも、所詮は金に目のない人間よ。わしはすでに、医者の中でも特に影響力のある者たちに、十分な付け届けをしておる。彼らは、新しい基準値の必要性を、もっともらしく訴えるであろう。病の予防のためだ、などと美辞麗句を並べ立ててな」

玄蕃は自信満々に言い放った。

「それに、世間は専門家とやらが言うことには弱い。テレビや新聞で、『最新の研究により、高血圧の基準が見直されるべきであることが明らかになりました!』などと報じさせれば、疑う者などほとんどおるまい。そして、不安になった民衆は、こぞって医者の門を叩く。その時こそ、そちの出番よ、越後屋」

「は、ははぁ! この宗右衛門、心得ましてございます! 薬を扱う製薬会社にも働きかけ、大量生産の準備をさせましょう。血圧計も、家庭用の簡易なものから、高機能なものまで、あらゆる種類のものを市場に投入する準備を整えます。健康食品についても、医者どもが推奨するような、いかにも効きそうなものを開発させましょう。医者と組んで、健康診断と称して、血圧測定を義務化させることも可能かもしれません。そうすれば、誰もが血圧を測り、新たな『高血圧予備軍』として、我らの顧客となる……!」

越後屋の妄想は膨らむばかりだ。彼の脳裏には、湯水のように金が流れ込む光景が鮮やかに浮かんでいた。

「うむ、その意気だ、越後屋。特に、家庭血圧についても基準を設けるよう、医者どもに働きかけておる。診察室での血圧と、家庭での血圧は違うなどと、もっともらしい理由をつけてな。そうすれば、自宅で気軽に血圧を測れるようになり、さらに多くの者を『予備軍』に仕立て上げることができる。そして、その家庭用血圧計の販売を一手に担うのは、もちろん越後屋、そちの役目よ」

玄蕃は、越後屋の目を見て、静かに言った。

「そのほうの越後屋が、この国の血圧計市場を牛耳るのだ。そして、血圧が高いと診断された者には、必ず医者が薬を処方する。その薬のほとんどを、そちの越後屋が扱う製薬会社から供給できるよう、裏工作を進めておる。これで、薬の製造から販売まで、全てを我らが手中に収めることができるのだ」

越後屋は、額に脂汗を浮かべながら、それでも口角を吊り上げた。

「お代官様、まこと、この宗右衛門、生涯をかけてお代官様にお仕えいたします! これで、越後屋の名は、末代まで語り継がれることになりましょう!」

「ふふふ……越後屋。世の者は、我らを悪代官だの悪徳商人だのと言うであろうが、それで良いのだ。民草が健康に金を使うのであれば、それはそれで世のため人のため。我らは、それを『助けてやっている』のだからな」

玄蕃はそう言って、再び不敵な笑みを浮かべた。その笑顔の裏には、民衆の不安を煽り、そこから莫大な富を搾取しようとする、悪辣な魂胆が隠されていた。

外の雨脚はさらに強まり、風が唸りを上げる。しかし、この密室の中では、二人の男の悪だくみが、着々と進行していた。高血圧の基準値改定という、一見すると医学的な進歩に見える裏で、彼らの私腹を肥やすための壮大な計画が、静かに、しかし確実に動き出していたのである。この先、どれほどの民衆が、彼らの策略の餌食となるのか。それは、まだ誰も知る由もなかった。

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