「越後屋、今日の稼ぎはどうじゃった?」
黒沼玄蕃、通称、悪代官玄蕃は、豪奢な屋敷の奥座敷で、ふんぞり返るように座っていた。傍らには、盆に盛られた色とりどりの菓子が並び、上質な茶の香が漂う。向かいに控えるのは、にこやかな笑顔を貼り付けた越後屋宗右衛門。その目は、しかし、金の匂いを嗅ぎつける獣のようにギラついている。
「へえ、お代官様のお陰で、今日もおかげさまで大層な儲けでございました。これもひとえに、お代官様の日頃のご威光があってこそ。」
越後屋は深々と頭を下げ、得意満面といった風情で答えた。玄蕃は満足げに頷き、茶を一口含む。
「うむ。そちの働きにはいつも感心しておるぞ、越後屋。世間ではわしを悪代官と罵る者もおるようだが、こうしてそちのような才ある者がわしを支えてくれるゆえ、この地も平和に保たれておるというものよ。」
玄蕃の言葉に、越後屋はさらに恐縮してみせる。
「滅相もございません、お代官様。世間知らずの愚か者どもが何を申そうと、お代官様のお心の深さ、この越後屋にはよくわかっておりまする。」
越後屋の露骨な阿諛追従に、玄蕃は鼻で笑った。互いに腹の内を探り合いながらも、両者の間には奇妙な信頼関係が成り立っていた。それは、悪事を働く者同士にしか生まれえない、共犯者意識にも似た連帯感であった。
「して、越後屋。今日はな、そちと一つ、世の行く末について語り合いたいことがある。」
玄蕃は急に真面目な顔になり、越後屋をじっと見据えた。越後屋は訝しげな顔をする。
「はて、お代官様、私のような下賤の者に、世の行く末など、恐れ入谷の鬼子母神…」
「よい、よい。堅苦しいことは抜きじゃ。そちはわしの片腕。わしが日頃、胸の奥に秘めておる思いを、そちには打ち明けても良いと思っておる。」
玄蕃は言葉を選びながら続けた。
「考えてみれば、わしとて若い頃は、この世の不正を正し、弱き者を助ける正義の士になろうと心に誓ったものよ。それがどうじゃ、今では世間からは悪代官と指弾される身。皮肉なものよな。」
越後屋は黙って玄蕃の言葉に耳を傾けている。
「だがな、越後屋。わしは決して、本心から悪事を好んでおるわけではない。世の不条理、人の心の闇に直面するにつけ、こうするしかないのだと、己に言い聞かせておるに過ぎぬ。」
玄蕃は珍しく、本音を漏らしているようだった。
「その不条理の最たるものが、他ならぬ『弱い者いじめ』よ。」
玄蕃の口から出た言葉に、越後屋はわずかに眉をひそめた。
「お代官様、弱い者いじめ、と申されますと…」
「うむ。力がなき者、声なき者、寄る辺なき者を、より強い者が弄び、搾取する。この世のどこを見ても、そうした輩がはびこっておるではないか。」
玄蕃は、まるで市井の世相を憂う義士のように語る。越後屋は、内心では鼻白みながらも、真剣な面持ちで相槌を打つ。
「たしかに、お代官様のおっしゃる通りでございます。この越後屋も商売柄、様々な人間を見てまいりましたが、金を持たぬ者、権力を持たぬ者が、いかに蔑ろにされるか、骨身に染みておりまする。」
「そうじゃろう、越後屋。そちも同じ思いであったか。」
玄蕃は満足げに頷き、続けた。
「例えばじゃ、この黒沼藩でも、貧しい農民が重い年貢に喘ぎ、その日の食い扶持にも事欠く有様。それでも、病気になれば医者にもかかられず、泣き寝入りするしかない。一方、富める者は、何の苦労もなく、ぜいたく三昧。この格差は、いったいどうしたものか。」
玄蕃の言葉には、どこか悲痛な響きがあった。悪事を働きながらも、その心の奥底には、かつての正義感がくすぶっているようにも見えた。
「それは…世の習いと申しますか…」
越後屋は言葉に詰まる。彼の商売は、まさにその格差の上になりたっているからだ。
「世の習い、か。たしかにそうかもしれぬ。だがな、越後屋。わしはな、この弱い者いじめというものが、どうしても許せぬのだ。」
玄蕃は拳を握りしめた。
「そちとわしは、こうして世間からは悪党と蔑まれておる。だが、わしらがやっておるのは、あくまで金儲け。力ずくで人を虐げたり、弱い者を食い物にしたりしているわけではない。あくまで、世の仕組みを利用して、うまく立ち回っているに過ぎぬ。」
玄蕃の言葉に、越後屋は深く頷いた。
「まことにその通りでございます、お代官様。私たちとて、商売として利を得ているだけで、徒に人を傷つけるような真似はいたしておりませぬ。」
「うむ。そこが肝要なのよ、越後屋。世の中には、何の益にもならぬのに、ただ憂さ晴らしのために、弱い者をいじめ抜く愚か者がおる。力の優劣だけで人を判断し、己の欲望を満たすために、他者を踏みにじる。これこそが、わしが忌み嫌う『悪』よ。」
玄蕃の言葉には、真剣な怒りがこもっていた。越後屋は、その意外な一面に、少しだけ戸惑いを覚えた。
「お代官様のおっしゃることは、よくわかりまする。たしかに、徒に人をいじめる輩は、見苦しいものにございます。」
「だろう? 越後屋。ならば、そちの意見を聞かせてみよ。この『弱い者いじめ』を、この世からなくすには、どうすればよいと思う?」
玄蕃は身を乗り出し、越後屋に問いかけた。越後屋は、まさか悪代官と世直し談義をする日が来るとは思ってもみなかった、といった表情で考え込む。
「はて…難しいご質問でございますな、お代官様。人の心根の問題ゆえ、一朝一夕には解決できぬかと…」
「たしかに、人の心根を変えるのは至難の業じゃ。だが、何も手をこまねいていては、何も変わらぬ。何か、できることはないか?」
玄蕃は真剣な眼差しで越後屋を見つめる。越後屋は観念したように、口を開いた。
「そうですね…まず、考えられるのは、法を厳しくすることでしょうか。いじめを行った者には、厳罰を課す。そうすれば、少しは抑止力になるかと。」
「うむ、法はたしかに必要じゃ。だが、それだけでは根本的な解決にはならぬだろう。法をかいくぐって、巧妙にいじめを行う者も出てくる。それに、法で縛りつけるだけでは、人の心は動かせぬ。」
玄蕃は越後屋の意見を一蹴した。
「では、次に考えられるのは、教育でしょうか。幼い頃から、人を慈しむ心を教え、弱い者に手を差し伸べることの大切さを説く。そうすれば、将来的にいじめを行う者が減るかもしれません。」
「教育か…それもまた、長期的な話じゃ。わしらが生きているうちに、効果が出るかどうかもわからぬ。それに、教育の場ですら、いじめは起こる。根深い問題じゃ。」
玄蕃は、越後屋の提案にも納得がいかないようだった。
「では、お代官様は、どのようなお考えでございますか?」
越後屋は、玄蕃の真意を測りかねていた。
「うむ…わしが考えるに、弱い者いじめの根源は、やはり『力の不均衡』にある。金、権力、あるいは身体の大きさ、学識の有無…様々な力があるが、その力が偏るからこそ、いじめが生まれるのだ。」
玄蕃は、自身の悪代官としての経験から導き出したかのような持論を展開する。
「なるほど…」
越後屋は、玄蕃の言葉に少しだけ合点がいったようだった。
「だからこそ、わしはこうして、金や権力を手に入れているのだ。力なき者を守るためには、まず自らが力をつけねばならぬ。弱いままでは、誰も守れぬからな。」
玄蕃は、自らの悪行を正当化するかのように語る。越後屋は、苦笑いを浮かべながらも、玄蕃の言葉の裏にある真意を探ろうとした。
「つまり、お代官様は、ご自身で力を蓄えることで、間接的に弱い者を守ろうとされておる、と?」
「そうじゃ。世間はわしを悪代官と呼ぶが、わしが蓄えた金は、いざという時には、この藩の民のために使うこともできる。飢饉の際には、米を買い集め、民に分け与えることもできるだろう。強欲な商人から、民を守ることもできる。」
玄蕃の言葉には、どこか自己陶酔にも似た響きがあった。だが、越後屋は、玄蕃が言うほど単純な人間ではないことを知っていた。
「なるほど、お代官様のお考え、理解いたしました。ですが、現状、いじめられている者を、今すぐに救うためには、どうすればよいのでしょうか?」
越後屋は、具体的な解決策を求めた。
「うむ…そこが難しいところじゃな。法や教育も必要だが、それだけでは間に合わぬ。やはり、必要なのは、『目の届く範囲で、直接的に手を差し伸べること』であろう。」
玄蕃は、珍しく思案顔になった。
「それは、具体的にはどのような形でございましょうか?」
「例えばじゃ、いじめられている子供がいれば、大人が間に入り、いじめを止めさせる。貧しい者がいれば、手を貸し、助ける。当たり前のことのように聞こえるが、それがなかなかできぬ。皆、見て見ぬふりをしてしまうからな。」
玄蕃の言葉には、どこか諦めにも似た響きがあった。
「それは、お代官様のようなお方が、率先して行われるべきことでは…」
越後屋は、皮肉を込めて言った。玄蕃は、越後屋の言葉にムッとした顔をする。
「越後屋、そちはわしを愚弄するか。わしとて、そうしたい気持ちは山々じゃ。だが、わしの立場では、おいそれと表立って動くわけにはいかぬ。」
玄蕃は、悪代官としての立場があるため、正義の味方のように振る舞うことはできないと主張する。
「それは重々承知しておりまする。しかし、お代官様ほどの権力をお持ちならば、やりようはいくらでもあるかと。」
越後屋は、玄蕃をさらに追い詰める。
「ふむ…たしかに、そうかもしれぬな。だが、あまりに露骨では、わしの立場が危うくなる。それに、すべてをわし一人で抱え込むこともできぬ。」
玄蕃は、少しだけ考え込む。
「では、お代官様。例えば、いじめられている者たちの声を、密かに集める仕組みを作るのはいかがでしょうか。そして、その情報をもとに、お代官様が間接的に手を回す。もちろん、お代官様の関与は一切表には出さぬ形で。」
越後屋は、商売人らしい抜け目ない提案をした。
「ほう…それは面白いな、越後屋。そちらしい、悪知恵の働く案じゃ。」
玄蕃は、越後屋の提案に興味を示した。
「情報収集は、この越後屋にお任せください。各地に張り巡らせた手代を使えば、いじめの情報を密かに集めることは造作もございません。そして、その情報を、お代官様にだけ報告する。」
越後屋は、自信満々に胸を張った。
「うむ。そして、その情報をもとに、わしが影から手を回す、ということか。例えば、いじめを行っている者の親に圧力をかけたり、いじめられている者の境遇を改善するよう、密かに指示を出したり…」
玄蕃は、越後屋の提案に具体的なイメージを膨らませていた。
「まさにそうでございます! お代官様はあくまで影の立役者。表向きは悪代官のままで、裏では世直しを行われる。これぞ、悪代官玄蕃にしかできぬ、大いなる世直しにございまする!」
越後屋は、玄蕃を煽るように言った。玄蕃は、越後屋の言葉に、まんざらでもないといった表情を浮かべた。
「ふむ…悪代官が、密かに世直しをする、か。面白いではないか。だがな、越後屋。そちにも、この計画に乗る利がなければ、動くまい。そちの利は何じゃ?」
玄蕃は、越後屋の真意を探る。越後屋は、待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「へへ、お代官様にはお見通しでございますな。もちろん、この越後屋にも利はございます。」
越後屋は、人差し指を立てて、玄蕃に近づいた。
「まず第一に、お代官様との絆が、より一層深まること。これにより、この越後屋の商売は、今後ますます盤石なものとなるでしょう。」
「ほう…それだけか?」
玄蕃は、眉をひそめた。
「いえいえ、それだけではございませぬ。この越後屋も、一応は商売人のはしくれ。人助けをすれば、巡り巡って、この越後屋にも良い噂が立つやもしれませぬ。もちろん、表向きには一切出さぬ形ではございますが、密かに善行を行うことに、この越後屋も喜びを感じるものでございます。」
越後屋の言葉は、どこまで本気なのか、玄蕃には判断できなかった。だが、少なくとも、越後屋がこの提案に乗る気があることは確かだった。
「ふむ…越後屋の言うことには、半分は嘘、半分は真実といったところか。だが、まあ良い。そちが動く気があるならば、この計画、試してみる価値はあるかもしれぬ。」
玄蕃は、腕組みをして考え込む。
「して、越後屋。この計画の名称はどうする? 『陰の世直し』、とでも名付けるか?」
「いえいえ、お代官様。もっと悪代官らしい、それでいて洒落のきいた名称が良いかと存じまする。例えば…『闇奉行』、などいかがでしょう?」
越後屋は、楽しそうに提案した。
「闇奉行…ふむ、悪くないな。わしが影から世の悪を裁く、というわけか。面白い。よかろう、越後屋。そちとわしで、この『闇奉行』計画を進めてみるか!」
玄蕃は、高らかに笑った。越後屋もまた、満面の笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます、お代官様! これで、この世から弱い者いじめが減り、お代官様の御威光がさらに高まることと存じまする!」
こうして、黒沼玄蕃と越後屋宗右衛門は、世間から悪代官と悪徳商人と呼ばれる身でありながら、その裏で「弱い者いじめ」をなくすための秘密の計画、「闇奉行」を始動させることになった。彼らの真意がどこにあるのかは定かではないが、少なくとも、この世から一つでも多くの悲しみが消えることを願うばかりである。
コメント