悪代官と越後屋の密談「オタク文化」

月のない闇夜、黒沼玄蕃の屋敷の奥座敷には、うねるような沈黙が漂っていた。障子一枚隔てた先には、虫の声と遠い辻斬りの噂が囁かれているが、この密室の中ではただ、分厚い絹の衣擦れの音だけが、妖しく響く。上座に座すは、豊満な腹を揺らし、いかにも悪辣そうな笑みを浮かべる悪代官、黒沼玄蕃。その前には、地面に平伏し、いかにも人の良さそうな顔をしながらも、目の奥にはギラつく欲望を隠し持った越後屋の主人、越後屋宗右衛門がいた。

「越後屋」

玄蕃の声は、地を這うように低く、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。越後屋は「ははっ」と短く応え、さらに頭を深く下げた。

「そちも、随分と世の中の移り変わりには敏感なようじゃな」

「もったいないお言葉にございます、お代官様。お代官様のお膝元で商いをさせて頂く身、世情の変化を読み解くのもまた、商人の性(さが)と心得ておりますゆえ」

越後屋の言葉は丁寧だが、その声にはかすかな含みがあった。玄蕃は、目の前の菓子を一つゆっくりと摘まみ、口に運ぶ。

「うむ。して、そのほうが見つけ出したという、新たな利の源泉とは、一体何ぞや?」

玄蕃は、わざとらしく顎を撫でた。越後屋は、すっと顔を上げ、玄蕃の目を見据える。その瞳には、すでに獲物を定めた獣のような光が宿っていた。

「お代官様。巷では今、『おたく』などというものが流行り始めております」

「おたく?」

玄蕃は、眉をひそめた。聞き慣れない言葉に、露骨に不快感を示した。

「左様にございます。なんでも、武士や町人、はてはご婦人方に至るまで、特定の分野に異様なまでの熱意を注ぎ込む者どもを指すとか。絵草子、芝居、歌舞伎、果ては珍しい石ころに至るまで、それぞれが我が道を行く、まこと妙な連中でございます」

越後屋は、いかにも面白そうに話す。玄蕃は、興味なさそうに鼻を鳴らした。

「くだらぬ。そのような者が、一体何の金になるというのだ?」

「それが、とんでもない利を生むのでございます、お代官様!」

越後屋は、声を潜めながらも、興奮気味に身を乗り出した。

「彼らは、その『推し』とやらを追うためならば、金に糸目をつけません。喉から手が出るほど欲する品ならば、たとえそれが紙切れ一枚であろうと、法外な値で買い求めるのでございます」

玄蕃は、ふむ、と顎に手を当てた。金に糸目をつけぬ、という言葉に、わずかに目が光る。

「ほう。それはまた、面白い話じゃな。して、具体的にどういった品が、その『おたく』とやらの心を掴むのだ?」

「例えば、絵草子でございます。世に出回る絵草子は数あれど、彼らは特定の絵師が描いたもの、特定の物語の続き、特定の登場人物の絵姿に、異常なまでの執着を見せます」

「つまり、需要が限定的で、かつ熱狂的であるということか」

玄蕃は、越後屋の言葉を咀嚼し、自らの言葉に変換した。越後屋は、にやりと笑った。

「その通りにございます、お代官様。そして、彼らが熱中する『漫画』『アニメ』とやらが、今や飛ぶ鳥を落とす勢いでございます」

「漫画…アニメ…また妙な言葉を。一体何ぞや、それは?」

玄蕃は、さらに眉間の皺を深くした。

「漫画とは、絵と文字で物語を紡ぐ絵草子の新しい形でございます。そしてアニメとは、その絵がまるで生きているかのように動く、幻の芝居のようなものでございます」

越後屋は、丁寧に説明した。玄蕃は、腕を組み、考え込むような仕草を見せた。

「絵が動くか。それはまた、奇妙な。しかし、それが金になると申すか?」

「左様にございます!彼らは、その漫画やアニメに登場する登場人物の『グッズ』とやらを欲しがります。小さな人形、絵姿が描かれた手拭い、扇子…果ては、その登場人物が着ていると設定された着物の意匠を模した品まで、ありとあらゆるものを欲しがるのでございます!」

越後屋は、まるで目の前に札束が積まれているかのように、目を輝かせた。玄蕃の顔にも、徐々に悪辣な笑みが浮かび始める。

「なるほど、なるほど。つまり、その『キャラクター』とやらが描かれた品ならば、飛ぶように売れるというわけか。それはまた、面白い。して、その漫画やアニメとやらを、どのように我らの懐に入れるのだ?」

「それが、すでに水面下で蠢いておりまして。とある絵師どもが、闇で描き溜めた漫画があると聞き及んでおります。表沙汰にできない内容ゆえ、正規の出版は困難。しかし、裏ではその『おたく』とやらが、喉から手が出るほど欲している品々でございます」

越後屋は、さらに声を潜めた。玄蕃は、深く頷いた。

「なるほど。つまり、禁制品として扱えば、さらに価値が高まるというわけか」

「おっしゃる通りにございます、お代官様!それに加え、その絵師どもを囲い込み、我々の手中に収めることができれば、さらなる利を生み出すことができます。彼らに我々の意に沿うような絵を描かせ、それを独占して売り捌けば、もはや笑いが止まりませぬ」

越後屋は、よだれでも垂れそうな勢いで語る。玄蕃は、薄ら笑いを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。

「うむ。それはまた、妙案じゃな、越後屋。して、その『おたく』とやらを集める場所は、すでに目をつけておるのか?」

「もちろんでございます、お代官様。近年、特定の場所に集まって、それぞれが持ち寄った品を交換したり、あるいは自ら描いた絵草子などを披露する『同人誌即売会』なるものが開かれていると聞きます。さながら、闇市のようなものでございます」

「闇市、か。いかにも我らの好む場所じゃな」

玄蕃は、満足げに頷いた。

「そこに、我々が用意した『グッズ』とやらを流し込む。あるいは、その『同人誌即売会』なるものを、我々が牛耳ってしまえば…」

越後屋は、言葉を切った。玄蕃は、その先を促すように、ゆっくりと視線を合わせた。

「…その集まる者どもから、入場料と称して銭を巻き上げ、我々が用意した商品を高値で売りつける。さらに、場所を貸す名目で、警護と称して口封じの用心棒を送り込み、彼らの交流を監視すれば、裏で何を企んでいるかも手に取るようにわかるというわけだ」

玄蕃は、越後屋の言葉を補完するように言い放った。越後屋は、深々と頭を下げた。

「お見事でございます、お代官様!まさにその通りにございます!」

「うむ。それに、その『おたく』とやらが熱中する『声優』なる者どもにも目をつけるべきじゃな」

玄蕃は、さらに話を広げた。越後屋は、目を丸くして玄蕃を見上げた。

「声優、でございますか?それはまた、どのような?」

「アニメとやらで、登場人物に声をあてる者どもじゃ。彼らの声に魅入られて、金を湯水のように使う者もいると聞く。彼らに我らの息がかかった歌を歌わせ、それを高値で売りつければ、さらに金が儲かるであろう」

玄蕃は、まるで未来を見通すかのように、高笑いした。越後屋は、震える声で答えた。

「お、お代官様…!まことに恐るべきご慧眼にございます!まさか、そこまでお考えとは…!」

「越後屋、わしはいつだって、金の匂いには敏感なのじゃ。その『バーチャルYouTuber』とやらにも、目をつけねばなるまい」

「バーチャル…なんと?」

越後屋は、もはや玄蕃の言葉についていけていない様子だった。

「架空の人物が、まるで生きているかのように振る舞い、人々に媚びを売るものと聞く。それらを我々が用意し、世に送り出せば、その人物の絵姿、声、そして物語までもが、我らの手中に収まる。そこに、先ほどの『グッズ』とやらを絡めれば、無限に金を生み出すことができるであろう」

玄蕃の目は、ギラギラと光り輝いていた。越後屋は、冷や汗をかきながらも、その言葉に戦慄を覚えた。

「お代官様…それは、もはや世の理を捻じ曲げる所業…」

「何を言うか、越後屋。世の理など、金のある者が作り出すものじゃ。この『おたく文化』とやら、一見すると取るに足らぬものに見えるが、実はとてつもない可能性を秘めておる。人々が熱狂し、金を惜しまぬ対象であれば、どんなものでも我らの利となるのだ」

玄蕃は、再び菓子を一つ摘まみ、ゆっくりと口に運んだ。その表情は、どこまでも冷酷で、計算し尽くされていた。

「そちは、まずその絵師どもを捕らえ、我らの意のままに動くように仕向けよ。そして、その『同人誌即売会』とやらを、我らの息のかかった場所で開催させるのじゃ。入り口で銭を巻き上げ、我らの用意した偽物を売りつける。そして、気に入らぬ者は、問答無用で叩き出す。よしな」

「ははっ!畏まりましてございます、お代官様!」

越後屋は、額を畳に擦り付け、深々と頭を下げた。その声には、恐怖と同時に、新たな金儲けへの期待が混じり合っていた。

「そして、その『キャラクター』とやらが描かれた品を、さらに高値で売り捌くために、『限定品』なるものを世に放つのじゃ。数に限りがある、と触れ込めば、愚かな民草は、我先にと群がって金を出すであろう。フハハハハ!」

玄蕃の高笑いが、屋敷の奥座敷に響き渡る。越後屋は、その笑いに合わせて、ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべた。

「お代官様のお考え、まことに恐れ入ります。この越後屋、全身全霊をかけて、お代官様のお役に立ってみせまする」

「うむ。期待しておるぞ、越後屋。この『おたく文化』とやら、存分に搾り取ってくれるわ!」

二人の悪党は、夜が更けるまで、金儲けの密談を続けた。外では、虫の音がひときわ大きく鳴り響き、まるで彼らの悪だくみを嘲笑っているかのようだった。しかし、彼らの耳には、ただ銭の音が聞こえているだけであった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました