悪代官と越後屋の密談「クルマバカ」

しとしとと梅雨の雨が降る、蒸し暑い夏の夜だった。江戸の町はずれにひっそりと佇む越後屋宗右衛門の屋敷。奥の間に通された黒沼玄蕃は、上座にどっしりと腰を下ろすと、扇子でゆったりと風を送った。対する越後屋は、額に脂汗を浮かべながらも、にこやかに玄蕃の顔色をうかがっている。

「越後屋、今宵もまた、そちの茶は格別よのう」

玄蕃がにやりと笑うと、越後屋は深々と頭を下げた。

「お褒めにあずかり光栄にございます、お代官様。お口に合いましたようで何よりでございます。」

「うむ。して、宗右衛門。この玄蕃がわざわざそちの屋敷まで足を運んだ理由、まさかお忘れではあるまいな?」

玄蕃の言葉に、越後屋の表情が引き締まる。

「とんでもございません、お代官様。巷で囁かれる『クルマバカ』について、いかにして我らの懐を温めるか、その密談と心得ております。」

「ほう、理解が早くて助かるわい。全く、世の中には奇妙な輩がおるものよな。ただの鉄の塊に大金を投じ、挙句の果てにはそれを自慢げに乗り回す。あれを『クルマバカ』と呼ぶのだそうな。」

玄蕃は鼻で笑った。

「お代官様のおっしゃる通りでございます。下賤な連中が、身の丈に合わぬ高価な車を買い求め、その維持に汲々としている様は、まさに滑稽としか言いようがございません。」

越後屋も同調する。

「しかしな、越後屋。その『滑稽』が、我らには見事な金蔓に見えるのだ。世間では『クルマバカ』と蔑むが、彼らの熱狂ぶりは尋常ではない。一度取り憑かれたが最後、どれだけ金を使おうとも厭わぬ。これほど美味い話があってたまるか。」

玄蕃の目に、ギラリと欲が宿る。

「お代官様の御慧眼、恐れ入ります。まことにその通りでございます。彼らは車を愛するがゆえに、惜しみなく金を使います。その飽くなき欲望こそ、我らが利用すべき最大の点にございます。」

「して、その利用法よ。何か妙案でもあるのか、宗右衛門?」

玄蕃が顔を近づけると、越後屋はあたりを警戒するように見回し、声を潜めた。

「はっ。まず、手始めに考えられますのは、車の修理や部品の供給でございます。」

「ふむ、修理か。しかし、それだけでは大した儲けにはなるまい?」

「お代官様、ご安心ください。彼らは些細な傷ひとつでも気にする性質にございます。ましてや、希少な部品や特注品となれば、我々がいくら吹っ掛けようと文句ひとつ言いません。例えば、わざと流通を滞らせ、品薄にすることで価格を吊り上げることも可能にございましょう。」

越後屋の顔に、いっそう卑しい笑みが浮かんだ。

「なるほど、それは悪くない。品薄か…うむ、面白い。」

玄蕃が顎を撫でる。

「さらに、彼らは自分の車を他人に見せびらかしたがります。そこで、特別な車を展示する場所、例えば高価な入場料を取る『車見世(くるまみせ)』のようなものを設けるのはいかがでしょうか。そこで車好きが集い、互いの車を品定めし、自慢し合う。そして、我々は彼らの見栄を煽り、さらに高額な入場料を徴収するのです。」

「車見世…ほう、それは斬新な発想よな。ただの茶屋や芝居小屋とは違う、彼らだけの特別な場所。そこへ高価な品を並べ、優越感をくすぐる。いかにも『クルマバカ』が喜びそうなことだ。」

玄蕃は身を乗り出した。

「さよう、お代官様。さらには、車の改造でございます。彼らは既存の車に飽き足らず、自分だけの特別な車に改造したがります。そこで、我々が腕利きの職人を雇い、彼らの奇妙な要求に応えるのです。もちろん、その費用は言い値でございます。塗料一つにしても、普通のものより高価な『秘伝の塗料』と銘打てば、喜んで金を出すでしょう。」

「秘伝の塗料か、くくく…それは良い。中身はただの安物でも、彼らは気づくまい。何せ、彼らは己の車に酔いしれているのだからな。」

玄蕃は愉快そうに笑った。

「そして、お代官様、極めつけは車の売買でございます。彼らは新しい車が出ると、すぐに前の車を売り払い、新しい車に乗り換えたがります。そこで、我々が『車の仲買人』として暗躍するのです。」

「ほう、仲買人か。しかし、そこまで儲けが出るものなのか?」

「お代官様、ご安心ください。我々は彼らの足元を見て、安値で買い叩き、そして別の『クルマバカ』には高値で売りつけるのです。さらに、人気のある車種や希少な車種は、わざと市場に出回らせず、需要を煽ります。そうすることで、我々が提示した価格でしか手に入らない状況を作り出すのです。」

越後屋の言葉に、玄蕃の目が光る。

「つまり、値崩れさせずに、常に高値で取引をさせるということか。それは賢い。」

「その通りでございます。さらに、車の持ち主が手放したがらないような、由緒ある車や特別な車には、『名義書換料』と称して高額な手数料を徴収することも可能にございます。」

「名義書換料…くく、何とも雅な名目よな。それもまた、いかにも『クルマバカ』が喜びそうな響きだ。」

玄蕃は満足そうに頷いた。

「そして、お代官様、これら全てに共通して言えることがございます。それは、彼らの情報に対する飢えでございます。」

「情報?」

「はい。彼らは常に新しい車の情報、珍しい部品の情報、あるいは他の『クルマバカ』がどのような車を持っているかといった情報に飢えております。そこで、我々がその情報を独占し、彼らに売りつけるのです。例えば、月に一度、高価な『車番付』を発行し、そこに希少な車の情報や、誰がどのような車を持っているかを掲載するのです。」

「車番付か!それは面白い。彼らは互いを牽制し合い、誰が一番良い車を持っているかを競い合う。そのための情報に金を払うというわけか。」

玄蕃は膝を叩いた。

「さようでございます。そして、その番付の上位に名を連ねる者には、我々から『特別な優遇』として、さらに高価な品やサービスを斡旋するのです。そうすれば、彼らはより一層、金を積むことでしょう。」

「うむ、その手は悪よのう…いや、賢い。まさに人間の見栄と欲を逆手に取った商売だ。」

玄蕃は満足げにうなずくと、ふと、あることを思いついた。

「越後屋、もう一つ、妙案があるぞ。」

「と申しますと、お代官様?」

「彼らは車に乗って遠出することを好む。そこで、街道の関所に高額な通行料を設けてみてはどうか。もちろん、表向きは『街道整備のための資金』とでも言っておけば、誰も文句は言うまい。そして、車に乗らぬ者には適用せぬのだ。」

越後屋はハッと息を飲んだ。

「それは…!お代官様、まことに恐れ入ります。その手があったとは…!関所を通るたびに金を取れば、彼らの移動欲を食い物にできます。しかも、役人の権限があれば、いくらでも合法的に徴収できます。」

「うむ。さらに、道の途中にわざと陥没個所を設けておくのだ。そこを通った車は、必ずや傷がつくか、故障する。そして、我々が手配した修理屋が、そこに駆けつけ、高額な修理代を請求する。」

玄蕃の顔には、悪辣な笑みが浮かんでいた。

「お代官様…それは鬼畜の所業…いえ、神業でございます!彼らは文句を言いたくとも、旅先で車が動かなくなれば、言い値で払うしかございません。まさに、一本道の先に我らが金の山を築くようなもの!」

越後屋は興奮のあまり、顔を紅潮させていた。

「くくく…他にも、彼らが競い合う場を設けるのも良い。例えば、『車競走(くるまきょうそう)』と称して、彼らの自慢の車を競わせるのだ。もちろん、参加費は高額に設定し、さらに観戦料も取る。そして、その勝敗には我らが事前に仕込んだ者が関与し、都合の良い結果に誘導すれば、賭け事でも儲けられよう。」

「車競走…それもまた、彼らの見栄と勝負欲をくすぐりますな。負けた者は、次の競走で勝つために、さらに車に金をかけるでしょう。」

「うむ。そして、その車競走の前後には、必ずや豪華な宴を催すのだ。そこで高価な酒や食事を提供すれば、二重三重に稼げる。」

玄蕃は満足げに頷いた。

「越後屋、どうだ。この『クルマバカ』どもを食い物にする策、我らの懐を温めるには十分であろう?」

「お代官様、まことに恐れ入ります!これほどの妙案、他にございません。お代官様の御慧眼と越後屋の銭勘定があれば、この江戸の富は、全て我らのものになりましょう!」

越後屋は深々と頭を下げた。その顔には、隠しきれない欲望がにじみ出ていた。

「うむ。ただし、この密談、決して口外するでないぞ、越後屋。万が一、この話が世間に漏れようものなら…」

玄蕃の声が低くなる。

「とんでもございません、お代官様!この宗右衛門、死んでも口を割ることはございません!全てはお代官様のため、そして我らの繁栄のため!」

越後屋は畳に額を擦り付けた。

「よかろう。では、早速この策を進める準備をせよ。まずは、例の修理屋と仲買人に声をかけ、いつでも動けるよう手配しておくのだ。そして、車見世の場所も選定にかかれ。」

「かしこまりました、お代官様。越後屋、すぐに取り掛かります!」

越後屋は立ち上がると、足早に奥の間を出て行った。残された玄蕃は、不敵な笑みを浮かべ、再び扇子でゆっくりと風を送った。

「クルマバカか…くくく、まさか己の道楽が、我らの肥やしになろうとはな。世の中、まことに面白いものよのう。」

窓の外では、まだ雨が降り続いていた。その雨音が、これから始まる悪辣な企みの序曲のように、しとしとと響いていた。

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