ひそやかな月が中空に浮かぶ夜、黒沼玄蕃の屋敷には、いつもとは違う緊張感が漂っていた。座敷には、磨き抜かれた床板が月明かりを反射し、奥には闇に沈む庭園が広がる。そこには、悪代官・黒沼玄蕃がゆったりと座し、その前に深々と頭を下げる越後屋宗右衛門の姿があった。
「越後屋、今宵もご苦労であるな。」
玄蕃の低い声が静寂を破る。その声には、獲物を前にした獣のような不敵な響きがあった。
「ははあ、お代官様には、ご機嫌麗しくお過ごしでしょうか。」
宗右衛門は顔を上げず、平伏したまま答える。その声は、一見恭しいが、どこか腹の底では玄蕃と同質の欲望が渦巻いていることを感じさせた。
「うむ。さて、そちを呼び出したのは、他でもない。近頃、世情が騒がしくなってきておる。先日の飢饉で民は飢え、不満が鬱積しておる。このような時こそ、我らは抜け目なく動かねばならぬ。」
玄蕃の目は、月明かりを浴びてぎらりと光った。その目は、民の苦しみなど微塵も感じさせず、ただ己の私腹を肥やすことしか考えていないことを物語っていた。
「お代官様のおっしゃる通りでございます。民の不満が高まれば高まるほど、我らの商機もまた広がるというもの。愚かな民どもは、いざとなれば神仏に頼り、為政者の慈悲を乞うばかり。その隙を突くのが、我らの務めと心得ております。」
宗右衛門は、すっと顔を上げた。その顔には、ぬらりとした油断のない笑みが浮かんでいる。玄蕃と宗右衛門、二人の悪党の間に、奇妙な共犯関係が生まれる。
「うむ、その通り。越後屋、そちはまことによく心得ておる。して、今宵、そちに相談したいのは、新たな儲け口についてだ。」
玄蕃は扇子を手に取り、ゆっくりと開いた。その扇子には、龍の絵が描かれており、その瞳は獲物を狙うかのように鋭い。
「ほう、新たな儲け口でございますか。まさしく、わたくしが今、最も心を砕いておりますことにございます。」
宗右衛門は、身を乗り出した。その目は、金への欲望でぎらぎらと輝いている。
「うむ。近頃、京より下ってきた新参の奉行がいるであろう。あれが、なかなかの曲者でな。我が懐に簡単には入り込まぬ。あれがこの地の政に口を出すようになれば、我らの目論見も滞りかねぬ。」
玄蕃の声に、かすかな苛立ちが混じる。新たな奉行の存在が、玄蕃の目論見を阻む障壁となっているのだ。
「なるほど、あの堅物でございますか。噂では、かなりの清廉潔白で、賄賂など一切受け取らぬとか。我らのような者にとっては、まことやっかいな御仁にございます。」
宗右衛門は、あごに手をやり、思案顔になった。
「うむ。そこでだ、越後屋。そちの持つ才覚と人脈を使い、あの奉行を手中に収める策を講じたいのだ。」
玄蕃は、にやりと笑った。その笑みには、悪事を企む者の愉悦が滲み出ていた。
「手中に、でございますか。しかし、あの御仁を金で釣るのは難しいかと存じます。いかなる高価な品を贈ろうとも、眉一つ動かさぬでしょう。」
宗右衛門は、首をひねった。
「金では無理であろうな。ゆえに、別の方法を考える必要があるのだ。」
玄蕃は、一呼吸置いた。そして、さらに声を低くして続けた。
「そこで、だ。越後屋、そちは、そのような方面にも手広く人脈があるであろう? 美しい女を使い、あの奉行の弱みを握るのだ。」
玄蕃の言葉に、宗右衛門の目が大きく見開かれた。
「は、ハニートラップでございますか!」
宗右衛門は、驚きを隠せない様子で叫んだ。
「うむ、その通り。美しい女は、男の心を惑わし、理性を麻痺させる。いかに堅物であろうと、男である限り、情に脆い一面があるはず。その弱みにつけ込むのだ。」
玄蕃は、悠然と頷いた。その顔には、悪巧みが成功したかのような満足げな笑みが浮かんでいた。
「なるほど、お代官様。さすがは、お代官様でございます。まさしく、人の心の奥底を見抜いた、巧妙な計略にございます。しかし、いかなる女を選ぶか、それが肝要かと存じます。」
宗右衛門は、興奮を隠しきれない様子で身を乗り出した。
「うむ。ただ美しいだけでは足らぬ。男の心を鷲掴みにする、知性と妖艶さを兼ね備えた女が必要だ。そして、何よりも、我らの意図を理解し、忠実に実行できる者でなければならぬ。」
玄蕃は、静かに語った。その言葉には、人の心の闇を深く理解している者の冷徹さが感じられた。
「お代官様の仰せの通りにございます。そのような女は、そうそうおりませぬが、わたくしには心当たりの者が何人かおります。京の都で名を馳せた、あの名妓・小夜(さよ)などはどうでしょうか。容姿端麗、歌舞音曲にも優れ、男を惑わす術に長けております。」
宗右衛門は、にやりと笑い、ある女の名前を挙げた。
「ほう、小夜か。その名、聞き覚えがあるな。たしか、かつて某藩の若殿を骨抜きにしたとか。なかなかの腕前と見受ける。」
玄蕃は、満足げに頷いた。
「はい。小夜は、男の心の隙間を見つけることに長けております。最初は清らかな娘を装い、徐々に男の心に入り込み、やがては離れられぬよう、巧妙に罠を仕掛けるでしょう。」
宗右衛門は、小夜の「手腕」を熱弁した。
「うむ。その女ならば、あの奉行も油断するであろう。奉行が小夜に心を奪われれば、しめたもの。あとは、小夜を通して、我らの都合の良いように政を動かすことができる。」
玄蕃は、邪悪な笑みを浮かべた。その目は、すでに奉行を掌で転がす未来を見ているかのように輝いていた。
「左様でございます。奉行が小夜に夢中になれば、公務も疎かになりましょう。その隙に、我らは密貿易を加速させ、不正な商いをさらに広げることができましょう。」
宗右衛門は、具体的な金儲けの算段を述べ始めた。
「うむ。そして、奉行が小夜に溺れれば、そのことを盾に、さらに要求を突きつけることもできる。なんなら、奉行の屋敷に女を住まわせ、常に監視することも可能になるな。」
玄蕃の悪辣な発想に、宗右衛門は感嘆の声を上げた。
「お代官様! まことに恐ろしいお考えにございます。しかし、それこそが、我らが私腹を肥やすための最善の策にございます! 奉行の弱みを握れば、この地の政は、まさしくお代官様の意のままに動かせましょう。」
宗右衛門は、身を震わせるほどに興奮していた。
「うむ。そうなれば、この地の利権は、すべて我らのもの。民どもは、飢えに苦しもうが、我らには関係ない。我らが潤えば、それで良いのだ。」
玄蕃は、冷酷な笑みを浮かべた。その言葉には、民衆への慈悲など一切ない。
「その通りでございます、お代官様。愚かな民どもに、わずかばかりの施しを与えて、恩に着せる。そうすれば、我らの悪行も露見することなく、安泰でございましょう。」
宗右衛門もまた、民衆を嘲笑うかのように続けた。
「うむ。越後屋、そちは、この計画の要となる。小夜の手配、そして奉行への接触、すべてそちに任せる。抜かりなく事を運べ。」
玄蕃は、宗右衛門にすべてを任せるように言った。
「ははあ、お代官様。この宗右衛門、命に代えてもこの大役を全ういたします。必ずや、奉行を篭絡し、お代官様のご期待に沿うよう、尽力いたしまする。」
宗右衛門は、深々と頭を下げた。その顔には、邪悪な野望が満ち溢れている。
「うむ。期待しておるぞ、越後屋。成功の暁には、そちにも相応の褒美を取らせよう。この黒沼玄蕃、約束は違えぬ。」
玄蕃は、満足げに扇子を閉じ、ひざの上に置いた。
「かたじけない、お代官様! この宗右衛門、お代官様のためならば、いかなる泥も被りましょう。」
宗右衛門は、感激した様子で何度も頭を下げた。
「よかろう。では、早速取り掛かれ。事が露見せぬよう、くれぐれも慎重にな。」
玄蕃は、月明かりに照らされた庭園に目を向けた。その目は、闇の奥で静かに光る獣のようだった。
「ははあ! それでは、お代官様、今宵はこれで失礼いたしまする。」
宗右衛門は、平伏したまま後ずさり、静かに座敷を後にした。
宗右衛門が去った後も、玄蕃はしばらくの間、静かに座っていた。月はさらに高く昇り、屋敷の庭園には、闇と静寂だけが残された。玄蕃の脳裏には、ハニートラップが成功し、奉行が己の掌で踊らされる未来が鮮明に描かれていた。その顔には、いよいよ深まる悪の笑みが浮かんでいた。
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