じめじめとした梅雨の夜。江戸の町の喧騒もとっぷりと暮れ、闇の中に提灯の明かりがぽつりぽつりと浮かび上がる時刻、悪代官・黒沼玄蕃の屋敷では、密やかな企みが練られていた。重厚な杉戸の向こうから漏れるのは、低い男たちのひそひそ声。部屋の中では、ふくよかな越後屋宗右衛門が、盆に載せた上等な菓子と酒を玄蕃の前に差し出し、にこやかに座していた。玄蕃は、すでに良い具合に酒が回っているのか、赤い顔で盃を傾けている。
「いやはや、お代官様にはいつもながら格別のお引き立てをいただき、越後屋宗右衛門、感謝の念に堪えませぬ」
宗右衛門が深々と頭を下げる。その声には、いかにも商売人らしい愛想と、しかし隠しきれないねっとりとした脂が滲んでいる。玄蕃は盃を置き、満足げに鼻を鳴らした。
「うむ、越後屋。そちの心遣いはいつも見事よ。して、今宵の肴は何だ?」
玄蕃の視線が、宗右衛門の顔からその奥に控える菓子へと移る。宗右衛門は心得たもので、すかさず銚子を取り上げ、玄蕃の盃に惜しみなく酒を注いだ。
「へえ、お代官様。今宵は、まことに結構な話がございましてな。世間では、『ゆーちゅーばー』とか申す、面白きものが流行り始めております」
「ゆーちゅーばー、と申したか?聞き慣れぬ名だな」
玄蕃は怪訝な顔で首を傾げた。その顔には、新しいものへの警戒心と、しかし同時に好奇の光が宿っている。
「へえ。それが、何とも奇妙なものでしてな。町の辻々で、若者どもが小さな板に映る絵を見ては、げらげらと笑い転げております。中には、まるで芸人のように振る舞う者が、遠い地の者にも見られるとか。何でも、その絵を見せることで銭を稼いでいるとかで」
宗右衛門は、まるで珍しい見世物を語るかのように、抑揚をつけて説明する。玄蕃の目は、次第に興味を帯びてきた。
「ふむ、つまり、絵芝居のようなものか?しかし、それが銭になるというのか?」
「左様でございます、お代官様。それが、ただの絵芝居ではございませぬ。何でも、『どーが』と申しまして、様々な内容のものを流しておるとか。踊りを見せる者、歌を歌う者、はたまた物を食べる様を流す者までいるとかで。そして、それを見る者が増えれば増えるほど、銭が増える仕組みになっておるとか」
宗右衛門は、にやりと口元を歪めた。その目には、銭の匂いを嗅ぎつけた商人の貪欲な光が宿っている。
「なるほど……。銭が増えるとな?それは聞き捨てならぬな、越後屋」
玄蕃は身を乗り出した。彼の脳裏には、すでに銭の山がちらつき始めている。
「へえ、お代官様。そこでございます。この越後屋、いち早くその『ゆーちゅーばー』というものに目をつけましてな。何か、お代官様のお力添えをいただければ、この越後屋、莫大な銭を稼ぎ、もちろんお代官様にも相応の分け前をお届けできるかと」
宗右衛門は、すり寄るように玄蕃に顔を近づけ、声を一段と低くする。
「ほう。分け前とな。具体的には、どのようにして銭を稼ぐつもりだ?」
玄蕃は、宗右衛門の提案に興味津々だ。
「へえ。まず、この『ゆーちゅーばー』と申す者たちですが、彼らが『どーが』を流すには、『ぷらっとふぉーむ』という場所が必要だそうでございます。例えるならば、劇場のようなものでしょうか。しかし、その劇場は誰でも使えるものではございません。一部の者が、その劇場を牛耳っておるとか」
「つまり、その劇場を我らが手中に収めれば、銭は我らのものということか?」
玄蕃の目が光る。彼は、常に権力と富を追い求める男だ。
「お代官様のご慧眼、恐れ入ります。しかし、それは少々骨が折れましょう。その劇場は、すでに大手の商人が手を付けておりますゆえ。そこで、この越後屋、別の筋を考えましてございます」
宗右衛門は一度言葉を切り、玄蕃の顔色を窺う。玄蕃がさらに興味を惹かれているのを見て取り、満足げに話を続けた。
「『ゆーちゅーばー』と申す者の中には、名が売れて、多くの者がその『どーが』を見る者がおります。彼らは『いんふるえんさー』と呼ばれ、その一言が、多くの者の心を動かす力を持つとか。彼らの『どーが』は、まるで生きた宣伝文句でございます」
「宣伝文句だと?つまり、彼らに我らの商品を宣伝させるとでもいうのか?」
「まさにその通りでございます、お代官様。例えば、この越後屋が仕入れた反物や、新しく売り出す菓子などを、人気のある『ゆーちゅーばー』に『どーが』の中で紹介させるのです。そうすれば、彼らの人気にあやかって、飛ぶように売れること間違いなしでございます」
宗右衛門の顔には、銭勘定が得意な商人特有の計算高い笑みが浮かんでいた。
「ふむ……。しかし、その『ゆーちゅーばー』とやらを、どのようにして我らの意のままに操るのだ?彼らは芸人のようなものだろう?気まぐれな者も多かろうに」
玄蕃が疑問を呈する。
「へえ、お代官様。そこがお代官様のお力の見せ所でございます。まずは、銭でございます。人気の『ゆーちゅーばー』には、通常の報酬に加え、特別の『御褒美』を用意いたしましょう。もちろん、越後屋が用意いたします」
「御褒美、か。なるほど、それは効くな。銭に目がくらまぬ者はおりませぬからな」
玄蕃はにやりと笑った。
「左様でございます。そして、万が一、銭でなびかぬ者がいた場合でございますが……」
宗右衛門は、ここで一段と声を低くし、あたりを伺うように目を細めた。
「そこは、お代官様のお力添えをいただきたく存じます。些細なことでございますが、彼らの悪い噂を立てたり、町での評判を落とすようなことをしたり、あるいは、彼らの親族に迷惑をかけたり……」
宗右衛門の言葉は、どす黒い本音を滲ませていた。玄蕃は、その言葉の裏にある脅迫めいた響きを即座に理解した。
「ふむ。つまり、飴と鞭というわけか。越後屋、そちはまことによく心得ておる。銭で懐柔し、それでも言うことを聞かぬ者には、影から手を回して痛い目を見せる。いかにも我らのやり口よ」
玄蕃は満足げに頷いた。彼の顔には、悪代官特有の冷酷な笑みが浮かんでいる。
「へえ、お代官様のお褒めの言葉、光栄にございます。そして、もう一つ、この越後屋が考えた巧妙な手がございます」
宗右衛門は、さらに奥の手があることを示唆する。
「ほう、まだあるのか?申してみよ、越後屋」
玄蕃は興味津々だ。
「へえ。それは、『どーが』の内容についてでございます。ただ商品を宣伝させるだけでは、あまりに露骨でございます。そこで、我々にとって都合の良い『どーが』を作らせるのです」
「都合の良い『どーが』とは、どういうことだ?」
「例えば、お代官様の御威光を称えるような『どーが』でございます。お代官様の寛大さ、お代官様の民を思う心、お代官様の公正な裁きなどを、それとなく『どーが』の中に盛り込ませるのです。そうすれば、町民どもは『ゆーちゅーばー』の言葉を信じ、お代官様への尊敬の念を抱くようになりましょう」
宗右衛門の提案に、玄蕃の顔には満面の笑みが浮かんだ。彼の悪徳は、民衆の愚かさを嘲笑うかのような笑みだ。
「なるほど、それは面白い。銭を稼ぎつつ、わしの評判も上げる。一石二鳥とは、まさにこのことよ。越後屋、そちはまことによく働く」
玄蕃は、盃を宗右衛門に差し出した。宗右衛門は、恐縮しながらも満面の笑みで盃を受け取り、玄蕃の盃に酒を注ぎ足した。
「もったいないお言葉にございます、お代官様。さらに、この『ゆーちゅーばー』の仕組みを応用すれば、我々の悪事を隠蔽することも可能になりましょう」
「なに?悪事の隠蔽だと?」
玄蕃は目を丸くした。これは彼にとって、銭儲け以上に魅力的な話だ。
「へえ。例えば、我々が不当な徴税を行った際、町民の不満が高まることがございましょう。その際、『ゆーちゅーばー』に、あたかもその徴税が民のためであるかのように語らせるのです。あるいは、別の悪事を隠すために、全く関係のない騒動をでっち上げさせ、そちらに民の目を向けさせることも可能でございましょう」
宗右衛門の言葉は、まさに悪知恵の極みであった。玄蕃は、感嘆のため息を漏らした。
「うむ、越後屋。そちはまことに天才よ。銭儲けのみならず、悪事の隠蔽まで手伝うとは。これほど頼りになる商人は、他にはおらぬ」
「お代官様のお役に立てるのであれば、この越後屋、本望にございます。しかし、そのためには、それなりの準備が必要となります。まずは、『ゆーちゅーばー』と申す者たちを束ねる組織が必要となりましょう」
「組織か。それもそちが仕切るのか?」
「へえ。この越後屋が、その頭となり、『ゆーちゅーばー』たちを管理統制いたしましょう。そして、彼らの『どーが』の内容を精査し、我々に都合の良いものだけを選りすぐって流させるのです。もちろん、その見返りとして、彼らには相応の報酬を渡すことになりますが」
宗右衛門は、すでにこの計画の全てを頭の中で構築しているようだった。
「なるほど、越後屋。そちの計画は、まことに周到で、隙が見当たらぬ。して、その組織を立ち上げる費用は、いくらほどかかるのだ?」
玄蕃は、ここぞとばかりに銭の話へと切り込んだ。
「へえ。まずは、人気の『ゆーちゅーばー』を引き抜くための手付け金、そして彼らを管理する人件費、それに『どーが』を制作するための道具の費用など、諸々でございますな……。おおよそ、千両は下らぬかと」
宗右衛門は、すかさず費用を提示した。
「千両だと?たわけたことを申すな、越後屋!そんな大金、今すぐには用意できぬわ!」
玄蕃は顔をしかめた。
「へえ、お代官様。ご無理を申しまして申し訳ございません。しかし、この千両は、あくまで初期投資でございます。これが成功すれば、何倍、何十倍もの銭となって、お代官様の懐に戻ってくること間違いなしでございます」
宗右衛門は、玄蕃をなだめるように、さらに言葉を続けた。
「例えば、この越後屋が新しく開く妓楼でございますが、この妓楼で働く女郎どもに『ゆーちゅーばー』の真似事をさせ、『どーが』を流すのです。そうすれば、遠い地からでも客が押し寄せ、たちまち大繁盛いたしましょう。その儲けで、初期費用などすぐに回収できまする」
「ほう、妓楼と『ゆーちゅーばー』を組み合わせるとは、越後屋、そちはまことにとんでもない悪知恵の持ち主よ!」
玄蕃は、宗右衛門の提案に驚きを隠せないでいた。彼の悪徳な発想は、常に斜め上を行く。
「へえ。さらに、その『どーが』の中で、我々が売りたい商品をさりげなく宣伝させたり、お代官様のお好みの者を称えさせたり……。まさに、やりたい放題でございます」
宗右衛門は、興奮冷めやらぬといった様子で語る。
「くっくっく……。越後屋、そちの考えは、わしの想像をはるかに超えておるわ。よし、わかった。その千両、用意してやる。しかし、その代わり、この計画が成功した暁には、わしに相応の分け前を寄越せよ。分かっておるな?」
玄蕃は、にやりと口元を歪めた。
「へえ、もちろんでございます、お代官様。お代官様の分け前は、この越後屋が命をかけてお守りいたします。それでは、早速この件、取り掛からせていただきます」
宗右衛門は深々と頭を下げた。その顔には、銭への欲望と、悪代官に取り入った成功者の満足感が入り混じっていた。
「うむ。頼むぞ、越後屋。この『ゆーちゅーばー』とやらで、銭の山を築き、民衆を意のままに操ってやるわい!くっくっく……」
玄蕃の高笑いが、静まり返った屋敷の中に響き渡る。その笑い声は、闇に潜む悪の企みを象徴しているかのようだった。
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