じめじめとした梅雨の夜、大垣藩江戸屋敷の奥深く、悪名高き勘定奉行、黒沼玄蕃の私室では、ひっそりと灯る行灯の光が二つの影を揺らしていた。一人はもちろん、この部屋の主である玄蕃。もう一人は、江戸市中にその名を轟かす呉服問屋「越後屋」の主人、宗右衛門であった。
「越後屋、よう参ったな」
玄蕃の声は、普段の尊大さに比べ、どこかひそやかで、しかしその奥には獣のような貪欲さが潜んでいる。宗右衛門は深々と頭を下げた。
「お代官様におかせられましては、今宵もお呼び立ていただき、まことに光栄に存じます」
宗右衛門の言葉は丁寧だが、その表情はぬめりとした油のような光沢を放ち、見るからに悪巧みが始まりそうな雰囲気を醸し出している。玄蕃は扇子をゆっくりと開き、じめつく空気をはらうように静かに扇いだ。
「して、越後屋。そちの耳に、近頃妙なる話は届いておるか?」
宗右衛門はすかさず膝を進めた。
「はっ。お代官様が仰せのこと、まさか『からくり絵草子』のことでございますでしょうか?」
玄蕃は満足げに小さく頷いた。
「うむ、その通りよ。世間では『西洋渡りの奇妙な仕掛け』などと囃し立てておるが、あれはな、越後屋、わしらのような者にとっては、まさに黄金の山よ」
「からくり絵草子」とは、近頃江戸で流行り始めた、手軽に絵や文字を印刷できる機械、つまりは現代のプリンターのことである。西洋からもたらされたその技術は、当初は物珍しさから一部の好事家の間で流行していたに過ぎなかったが、玄蕃の嗅覚は、そこに潜む莫大な利権の匂いを嗅ぎ取っていたのだ。
「お代官様のご慧眼には、毎度驚かされまする。しかし、かのからくり絵草子、維持には高価な『墨の壺』が必要と聞きます。あれでは、いくら物珍しくとも、庶民には手が出ますまい」
宗右衛門の言葉に、玄蕃はにやりと笑った。
「そこよ、越後屋。そこが肝要なのだ。高価な『墨の壺』、すなわち 純正インク よ。あの壺、一つ作るのにどれほどの費用がかかると思う?」
「さぞかし、高価な材料を用いているのでしょうな」
「たわけめ。さほどのことはない。だがな、あの墨の壺を製造しているのは、今のところ京の都の数社のみ。故に、いかようにも値を吊り上げることができよう。だが、それでは民の手に届かぬ。民の手に届かぬのでは、商いにならぬわ」
宗右衛門は玄蕃の真意を測りかね、首を傾げた。
「では、いかがなさいまする? 値を下げては、儲けが減りまするが」
玄蕃は再び扇子を閉じ、膝元に置くと、身を乗り出した。
「無論、純正の墨の壺を安く売るなど、愚の骨頂。考えるべきは、別の道よ。越後屋、そちは、贋物、偽物、そういった類の品を扱うことも厭わぬと聞くが?」
宗右衛門は一瞬、顔色を変えたが、すぐに元の油のような笑顔に戻った。
「滅相もございません、お代官様。わたくしどもは、堅気の商売を……」
「戯言を申すな。よいか、越後屋。わしが申しておるのは、悪しき贋物ではない。あれよ、あれ。 互換インク と申すものよ」
その言葉に、宗右衛門の目がきらりと光った。
「互換インク、でございますか」
「うむ。純正の墨の壺と寸分違わぬ働きをする、しかし、製造元は別の、安価な墨の壺よ。かの京の都の製造元は、技術の粋を集めておると豪語しておるが、しょせんはただの墨。真似できぬはずがなかろう」
玄蕃の言葉は、宗右衛門の心にすとんと落ちた。純正品を真似て、もっと安く作り、それを流通させる。まさに越後屋の得意とするところであった。
「なれば、その互換インクとやらを、越後屋が製造する、と仰せにございますか?」
宗右衛門は興奮を隠しきれない様子で身を乗り出した。
「いや、そちは流通を担え。製造は、わしが目を付けておる、腕の立つ職人が何人かおる。奴らは腕は立つが、世渡りが不器用でな。表舞台には立てぬゆえ、わしが後ろ盾となってやれば、喜んで引き受けよう。そして、越後屋、そちはその職人どもが作った互換インクを、いかにも純正品と見紛うような体裁で、しかし安価に売りさばくのだ」
「なるほど! しかし、お代官様。かの京の都の製造元が、黙って見過ごすとは思えませぬが?」
宗右衛門の懸念はもっともであった。純正インクの製造元は、幕府にも太いパイプを持つ有力な商人たちである。
「心配するな、越後屋。そこはわしが手を回す。勘定奉行の権限をもって、からくり絵草子の普及を名目に、互換インクの流通を黙認させる。あるいは、表向きは取り締まるフリをして、裏で越後屋の品が流れるように仕向けることもできよう。もちろん、京の都の者には、それなりの袖の下を持たせることも忘れぬがな」
玄蕃はにやりと笑い、その目には冷酷な光が宿っていた。
「さらに、越後屋。この互換インクは、純正品よりも質が劣るとは言え、見栄えさえ良ければ、民は喜んで買うであろう。多少、絵の色が薄かろうが、文字が滲もうが、安ければ文句は言うまい。万が一、不具合が出たとしても、『使い方が悪い』とでも言っておけばよかろう」
宗右衛門は、その言葉に深く頷いた。民衆を欺くことなど、越後屋にとっては朝飯前である。
「しかし、お代官様。万が一、その互換インクとやらが、からくり絵草子そのものに不具合をもたらすようなことがあれば、問題になりませぬか?」
宗右衛門の懸念は、もっともなものであった。安価な互換インクの中には、プリンター本体に損傷を与える粗悪品も存在する。
「ふむ……」
玄蕃は顎に手を当て、しばし考え込んだ。そして、再び不敵な笑みを浮かべた。
「その時は、修理の利権を握ればよいのだ。からくり絵草子が壊れれば、皆、修理を頼むであろう? その修理も、越後屋、そちが手広く請け負うのだ。修理に必要な部品も、わしが手配してやろう。粗悪な互換インクで絵草子が壊れれば壊れるほど、わしらの懐は潤うという寸法よ」
宗右衛門は、その悪辣な計画に感嘆の声を上げた。
「お代官様、それはまさに鬼の着想! 一度売れば終わりかと思いきや、壊れればさらに儲け口が増えるとは!」
「うむ。そして、互換インクが普及すればするほど、からくり絵草子の需要も増す。絵草子本体の製造元も潤い、京の都の者たちも、互換インクの存在を黙認せざるを得なくなるであろう。皆が儲かる、まさに三方一両損ならぬ、三方一両得よ」
玄蕃は満足げにうなずいた。その目には、未来の富が映っているかのようであった。
「越後屋、そちはこの事業で、どれほどの富を築きたい?」
「お代官様のご厚意あってのことでございますれば、わたくしどもは、お代官様のお慈悲に預かるばかりでございます」
宗右衛門は、口では謙遜しながらも、その目は爛々と輝いていた。玄蕃は扇子を広げ、ゆっくりと扇いだ。
「よいか、越後屋。この事業の成功は、何よりも 情報操作 にかかっておる。互換インクは安価だが、その品質は純正品には劣る。そこをいかに民衆に悟らせずに、あるいは、悟らせても『安さ故に仕方ない』と思わせるか。そこが腕の見せ所よ」
「はっ。世論の誘導は、わたくしども越後屋の得意とするところにございます。安価な互換インクこそが、からくり絵草子を広く世に普及させるための『民衆の味方』であると喧伝いたしましょう。純正インクは、一部の金持ちしか使えぬ贅沢品であると貶め、互換インクこそが、庶民の暮らしを豊かにする画期的な品であると触れ回れば、民は我らの手のひらで踊りましょう」
宗右衛門は、悪だくみに磨きのかかった策を次々と口にした。
「うむ、それでよい。そして、何か問題が起これば、『純正品が悪い』あるいは『他社の互換インクが粗悪』などと、責任を転嫁するのだ。越後屋、そちの商才にかかっておるぞ」
玄蕃はそう言って、満足げに笑った。宗右衛門もまた、満面の笑みを浮かべた。
「お代官様、わたくしめ、この越後屋宗右衛門、お代官様のご期待に沿えるよう、粉骨砕身いたす所存でございます」
「うむ、頼んだぞ、越後屋。この事業が成功すれば、そちの財は倍増、いや、十倍にもなろう。わしとて、これまでの蓄えをはるかに凌駕する富を得られよう。この江戸の町を、いや、日の本を、我らの懐から牛耳ってやろうではないか」
玄蕃は高笑いした。宗右衛門もそれに合わせて笑う。行灯の揺れる光の中、二人の悪人の笑い声が、じめじめとした夜の闇に吸い込まれていった。互換インクという新たな利権を巡る、悪代官と越後屋の密談は、こうして静かに、しかし着実に進行していくのであった。
コメント