「越後屋、今日の月は殊の外(ことのほか)美しいではないか」
黒沼玄蕃は、自身の屋敷の奥座敷から見える満月を肴に、ゆったりと盃を傾けていた。隣には、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべた越後屋宗右衛門がかしこまっている。しかし、その眼の奥には、銭勘定に抜かりない商人の shrewdness が光っていた。
「へえ、お代官様のおっしゃる通りでございます。この良き晩に、お代官様とお話しできますこと、越後屋宗右衛門、身に余る光栄に存じます」
宗右衛門は、深々と頭を下げた。玄蕃は鼻で笑い、ぐいと酒を煽る。
「さて、越後屋。今宵そちを招いたのは、他でもない。近頃巷(ちまた)を賑わせる、新たな儲け話についてじゃ」
宗右衛門は身を乗り出した。彼の耳は、金の話には特に敏感なのだ。
「儲け話でございますか!それはまた、越後屋には聞捨てならぬお話でございますな。なにとぞ、お代官様のお知恵を拝聴させていただければと存じます」
玄蕃はにやりと笑い、わざとらしく小声になった。
「うむ。実はな、現代の世では『内申書』なるものが、若者たちの行く末を左右するとか申しておる。これがまた、なかなかどうして、厄介な代物でな」
「内申書、でございますか」
宗右衛門は首を傾げた。彼の時代にはない制度である。
「うむ。なんでも、学で身を立てる者たちが、その学舎での行いを記した書付けのことらしい。これが良ければ良き学舎に進め、悪ければ道が閉ざされるとか」
「ほう、それはまた、面白い。人の一生を左右する書付けとあらば、そこに付け入る隙もございましょう」
宗右衛門の目がらんらんと輝きだした。まさに、彼が嗅ぎつけたかった匂いである。
「その通りじゃ、越後屋。して、この内申書、いかようにも操作できるという話がまことしやかに囁かれておる。教師という者が、己の裁量で好き勝手に記述できるとかなんとか」
玄蕃は愉快そうに笑った。宗右衛門は、すかさずその言葉に乗る。
「なるほど!それは、まさに『抜け道』でございますな!お代官様は、さすがの着眼点でございます」
「うむ。そこでじゃ、越後屋。この内申書を巡って、親たちが右往左往しておるというではないか。我が子を良き学舎に入れたいがために、教師に取り入ろうとしたり、賄賂を贈ろうとしたり…」
「なんと!それでは、まさにこの越後屋の出番ではございませんか!」
宗右衛門は膝を打った。彼の頭の中では、すでに様々な悪事が計画され始めていた。
「いかにも。しかし、直接教師に手を回すのは、いささか危険が伴う。そこでじゃ、越後屋、そちの出番よ」
玄蕃は、宗右衛門の肩をぽんと叩いた。
「ははあ、お代官様のお考え、お見通しでございます。越後屋が、その間に立ちましょうというわけでございますな」
「その通りじゃ。越後屋、そちが『内申書向上請負人』とでも名乗って、親たちから金を集めるのじゃ。そして、その金の一部を教師に流す。そうすれば、教師も内申書に良いことを書き、親たちも満足する。そして、我々も潤う、という算段よ」
玄蕃は、まさに悪代官といった顔で、にんまりと笑った。宗右衛門は、にやにやと下品な笑みを浮かべた。
「お代官様、それはまさに、千両箱が転がり込むようなお話でございます!越後屋、この話、ぜひともお引き受けいたしたく存じます!」
「うむ。して、具体的にはいかようになすつもりじゃ?」
玄蕃は、宗右衛門の計画を聞く体制に入った。
「へえ。まずは、手始めに、学舎の教師どもに声をかけましょう。『内申書を良くしてほしい』と願う親御さん方が大勢いらっしゃると。つきましては、ささやかながら『ご礼金』をお渡ししたい、と」
「ふむ。直接的すぎはせぬか?」
玄蕃は眉をひそめた。
「ご心配には及びませぬ、お代官様。越後屋は、そこはかとなく、あくまで『教育熱心な親御さんからの感謝の気持ち』としてお渡しいたします。決して、内申書を操作する見返りとは言いません。しかし、教師どもは、それが何を意味するか、百も承知でございましょう」
宗右衛門は、したり顔で答えた。
「なるほど、越後屋、さすが抜け目ないのう。して、その『ご礼金』は、いかほど渡すつもりじゃ?」
「へえ、そこは教師の『格』によりけりかと。若輩者には安く、ベテランには高く、でございます。そして、その教師の『良心』とやらを揺さぶる程度に、しかし、決して教師が『大金だ』と恐縮するほどではない額を」
「うむ、その駆け引きが肝要じゃな。して、親たちからは、いかほど巻き上げるつもりじゃ?」
玄蕃の目が、ギラリと光った。
「へえ、そこは『お子様の将来』という言葉を盾に、ふんだんにいただきましょう。相場よりはるかに高く、しかし、『お子様のためなら』と親御さんが納得する程度の額を」
宗右衛門は、手のひらを擦り合わせるように答えた。
「しかし、越後屋。ただ金を受け渡しするだけでは、飽き足らぬ者も出てこよう。何か、もっと巧妙な手立てはないものか?」
玄蕃は、さらに悪辣な手を思いついたようだ。
「お代官様、さすがでございます。越後屋も、ただの金儲けでは面白うございません。そこで、一つ、考えがございまして」
宗右衛門は、玄蕃に顔を近づけた。
「学舎には、『部活動』なるものがございましょう。これの成績も、内申書に関わるとか」
「うむ、聞くところによると、運動や文化活動の評価も加味されるとか」
「でございますれば、越後屋が、それらの部活動に『寄付』と称して金を出すというのはいかがでしょう?もちろん、その金は親御さん方から集めたものでございますが」
「ほう、寄付、とな」
玄蕃は顎に手を当てた。
「へえ。さすれば、教師どもも越後屋には頭が上がらなくなりましょう。そして、『越後屋殿のおかげで、この部の活動も盛んになった』などと、生徒たちにも越後屋の恩義を植え付けられます。ひいては、越後屋の息のかかった生徒の内申書が、より良いものになるという寸法でございます」
宗右衛門は、いかにも狡猾そうな笑みを浮かべた。
「なるほど、越後屋、なかなかやるではないか。寄付という名目で、教師と生徒に恩を売り、さらに内申書を操作するとは。まさに一石三鳥よ」
玄蕃は、満足そうに頷いた。
「さらにでございます、お代官様。学舎には『評定会議』なるものもございましょう。生徒の評価を決める大切な場に、越後屋も『教育顧問』などと称して顔を出すのはいかがでございましょうか」
「教育顧問、だと?越後屋が?」
玄蕃は、面白そうに目を細めた。
「へえ。越後屋は、今まで様々な商売をしてまいりましたゆえ、世の中の表も裏も知り尽くしております。ゆえに、生徒たちの『実社会での生きる力』を養う助言ができる、などと持ちかければ、教師どもも反対いたしますまい。そして、会議の場で、越後屋に縁のある生徒の評価を、それとなく持ち上げるのでございます」
宗右衛門は、得意げに胸を張った。
「越後屋、お主、なかなか大胆な策を思いつくものよ。しかし、そこまで入り込めば、足元をすくわれる危険も増えようぞ」
「ご心配には及びませぬ、お代官様。越後屋は、決して証拠を残しません。あくまで、越後屋は『良き相談役』であり、『教育熱心な支援者』でございます。そして、何か問題が起きれば、すべては教師の『判断』によるもの、と責任を擦り付ければよいのです」
宗右衛門は、悪びれる様子もなく言い放った。
「ふむ、越後屋のその面の皮の厚さには感服いたす。しかし、その内申書とやらで、本当に全ての生徒が良き学舎に進めるわけではなかろう?後々、不満の声が上がっては厄介じゃ」
玄蕃は、核心を突く質問をした。
「へえ、お代官様、ごもっともでございます。そこで、越後屋は、二段構えで考えております」
宗右衛門は、さらに奥の手があると言わんばかりの表情で言った。
「二段構えとは?」
「一つは、内申書を高く買い上げる者と、そうでない者を区別すること。高く買い上げた者には、越後屋の伝手(つて)を使い、確実に良き学舎に進ませましょう。もちろん、その費用は別途いただきますが」
「なるほど、それは当然の理じゃな。して、もう一つは?」
玄蕃は、興味津々といった様子で尋ねた。
「もう一つは、『救済措置』とでも申しましょうか。内申書が思わしくなかった者、しかし、親が金を出せば、何とでもなる、という道を残しておくのでございます」
「ほう、いかにして?」
「へえ。例えば、『補習塾』でございます。越後屋が経営する補習塾に通わせれば、内申書が悪くとも、学力を上げて良き学舎に入れる、と喧伝するのです。もちろん、その塾の月謝は、破格の値段にいたしますが」
「ふむ、なるほど。つまり、一度は内申書で諦めさせた親たちから、さらに金を引き出すというわけか」
玄蕃は、感心したように頷いた。
「その通りでございます。そして、その塾には、腕利きの教師を招くと見せかけて、実は教師の副業として、密かに越後屋の息のかかった者たちを送り込むのでございます。そうすれば、塾の運営費用も抑えられますし、さらに教師たちを抱き込むこともできます」
宗右衛門は、悪知恵の限りを尽くすといった様子で語った。
「越後屋、お主、どこまで悪辣なことを考えるのじゃ。感心するぞ」
玄蕃は、心底楽しそうに笑った。
「お代官様のお眼鏡にかなうのであれば、越後屋、これに勝る喜びはございません」
宗右衛門は、深々と頭を下げた。
「しかし、越後屋。これほど大規模な企てとなると、世間の耳目も集めよう。いかにして、その目を欺く?」
玄蕃は、最後に肝心な点を問いかけた。
「へえ、そこはご安心くだされ、お代官様。越後屋は、世間には『教育熱心な支援者』として振る舞いましょう。『未来を担う若者たちのために』と、聞こえの良い言葉を並べ、慈善事業のように見せるのでございます」
「慈善事業、とな?」
「その通りでございます。時には、わざとらしいほどに小銭を寄付したり、困っている生徒を助けるふりをしたり。そうすれば、世間は越後屋を『徳のある商人』と見なし、まさかその裏で悪事を働いているとは思うまい」
宗右衛門は、いかにも狡猾そうな笑みを浮かべた。
「うむ、なるほど。越後屋のその手腕ならば、きっとこの企て、成功することであろう。して、わしにはいかほど回ってくるのだ?」
玄蕃は、いよいよ本題に入った。
「へえ、お代官様には、もちろん、この儲けの半分を献上いたします。何しろ、この話をお持ちくださったのは、お代官様でございますゆえ」
宗右衛門は、にこやかに答えた。
「半分か。よし、悪くない。越後屋、期待しておるぞ」
玄蕃は、満足そうに頷き、再び盃を傾けた。満月は、相変わらず煌々と輝いていた。その光は、まるで二人の悪巧みをあざ笑っているかのようにも見えた。
「へへへ。お代官様、越後屋、この話、必ずや大成功させてみせます。近いうちに、千両箱をいくつも、お代官様の御前に運びましょう」
宗右衛門は、下品な笑いを漏らした。二人の密談は、夜が更けるまで続いた。内申書を巡る金儲けの企ては、こうして闇の中で着々と進行していくのであった。
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