ひんやりとした夏の夜気が、黒沼玄蕃の屋敷の奥座敷に漂っていた。障子越しに虫の声が聞こえるばかりで、闇夜に潜む悪巧みを包み隠すかのように静まり返っている。上座には、重厚な構えの黒沼玄蕃が、分厚い絹の着物をはだけて座っている。その眼光は鋭く、獲物を狙う鷹のようであった。下座には、頭を下げて恐縮しきった様子の越後屋宗右衛門が控えている。商人の身形ではあるが、その顔には欲深さが隠しきれていなかった。
「越後屋、待たせたな」
玄蕃の声は低く、しかし有無を言わせぬ響きがあった。越後屋は恐る恐る顔を上げた。
「いえ、とんでもございません、お代官様。お呼び立ていただき、光栄にございます」
相変わらずの腰の低さに、玄蕃は鼻で笑った。
「さて、単刀直入に申す。近頃、世間を賑わす『大谷翔平』とやら、あれは一体何なのだ?」
玄蕃の問いに、越後屋は待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
「ははあ、お代官様もご存知でございましたか。まさに今、世は『大谷フィーバー』に沸いておりまする。彼は、遠い異国の地で野球という競技において、前代未聞の活躍をしている若者でございまして…」
越後屋は得意げに大谷翔平の功績を並べ立てた。二刀流、ホームラン、奪三振、MVP……その言葉の羅列に、玄蕃は次第に顔色を変えていった。
「ふむ、つまりその大谷とやらが、異国で金になるということか?」
玄蕃の言葉に、越後屋はゴクリと喉を鳴らした。
「左様でございます、お代官様。彼が打てば、投げれば、新聞は売り切れ、テレビは彼の試合中継ばかり。彼の名を冠した品は飛ぶように売れ、彼の姿を模した人形は品薄。まさに金のなる木にございます!」
越後屋の言葉に、玄蕃の目がぎらりと光った。
「なるほど……。越後屋、そち、何か良き考えでもあるまいな?」
玄蕃の問いに、越後屋はにやつきながら進み出た。
「はい、お代官様。実は先日より、この越後屋め、その大谷とやらを用いた新たな商売を企んでおりました。まさに、お代官様のお知恵を拝借したいと願っていたところでございます」
「ほう、申してみよ」
玄蕃は興味深げに越後屋を見つめた。
「はっ。まず一つは、『大谷札(おおたにさつ)』でございます」
「大谷札?」
玄蕃は眉をひそめた。
「はい。彼の活躍を描いた錦絵を刷り、それに彼のサインと称する偽筆を添え、限定品として売り出すのです。もちろん、本物のサインなど手に入りませんゆえ、それらしきものを適当にでっち上げればよろしい。人々は彼の偉業に酔いしれておりますゆえ、真贋など気にも留めませぬ。高く売れましょう」
越後屋は自信満々に語る。玄蕃は腕を組み、唸った。
「ふむ……。しかし、それではあまりにも露骨ではないか? すぐに偽物だと露見するやもしれぬ」
「ご安心ください、お代官様。そこは越後屋の腕の見せ所でございます。紙質、墨の色、筆の勢い、全てにおいて本物と見まがうばかりの精巧な偽物を作り上げます。それに、我々にはお代官様の御威光がございます。お代官様の御墨付きがあれば、誰も疑うことなどできませぬ」
越後屋は玄蕃の顔を窺いながら、さらに続けた。
「そしてもう一つは、『大谷饅頭(おおたにまんじゅう)』でございます」
「饅頭だと?」
玄蕃は呆れたように言った。
「はい。彼の出身地である奥州の特産品を餡に用い、大谷翔平の顔を模した饅頭を製造販売するのです。もちろん、奥州の特産品など手に入るわけがございませぬゆえ、安価な材料で適当に作ればよろしい。包装紙には、彼の活躍ぶりを記した謳い文句を並べ立て、さも彼が監修したかのように見せかけるのです」
越後屋は卑しい笑みを浮かべた。
「しかし、饅頭では利益が薄いのではないか?」
玄蕃の問いに、越後屋は首を振った。
「いえいえ、お代官様。その饅頭には、さらに仕掛けがございます。百個に一つ、彼の背番号にちなんだ『大谷記念硬貨』と称する偽物の小判を忍ばせておくのです。もちろん、ただの真鍮にそれらしく刻印を施しただけの代物でございますが、人々は『当たり』を求めて競って買い求めるでしょう。それこそが、越後屋の狙いでございます」
越後屋は得意げに胸を張った。玄蕃は膝を叩いて笑った。
「くっくっく……越後屋、そちはまことによく働く。さすがは越後屋宗右衛門よ」
玄蕃は満足そうに頷いた。
「全てはお代官様のお引き立てあってこそでございます」
越後屋は深々と頭を下げた。
「では、その売り上げの取り分だが……」
玄蕃が切り出すと、越後屋は間髪入れずに答えた。
「もちろん、売り上げの半分はお代官様へ。残りの半分で製造費と越後屋の取り分とさせていただきまする」
「うむ、良かろう」
玄蕃はにやりと笑った。
「それに、もう一つ、お代官様にお願いがございまして」
越後屋はさらに身を乗り出した。
「申してみよ」
「はっ。この大谷フィーバーに乗じ、異国からの輸入品を偽って売りさばきたいと存じておりまする。異国の品と偽って高値で売りつけ、儲けを出す魂胆でございます」
「異国の品を偽造するのか?」
「はい。異国の珍しい品と偽り、粗悪な品を高値で売りつけるのです。例えば、異国の地でしか手に入らぬという奇病に効く薬と称して、ただの穀粉を売りつける。あるいは、異国の貴重な宝石と偽り、ただのガラス玉を高値で売りつける。お代官様の御威光があれば、誰も疑うことなどできませぬ」
越後屋は邪悪な笑みを浮かべた。玄蕃は腕を組み、しばし考え込んだ。
「ふむ、それも悪くない。異国の品とあらば、人々は疑いもせず飛びつくだろう。しかし、あまりにも大々的にやると、いずれ露見するやもしれぬ。そこは越後屋、そちの腕の見せ所よ」
「お任せください、お代官様。越後屋め、細心の注意を払い、決して尻尾を掴ませませぬ」
越後屋は深々と頭を下げた。
「良し。では、早速取り掛かれ。この大谷フィーバーが冷めやらぬうちに、存分に稼ぎ出すのだ」
「ははあ!かしこまりました、お代官様。越後屋め、この大谷フィーバーを金儲けの絶好の機会と捉え、お代官様の御期待に応えてみせまする!」
越後屋は満面の笑みを浮かべ、何度も頭を下げた。玄蕃は満足げに頷き、酒を呷った。屋敷の外では、虫の音が一段と高く響いていた。二人の悪党の密談は、夜が更けるまで続いた。
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