夜のとばりが京の都を包み込み、油問屋「越後屋」の奥座敷には、ぼんやりとした行灯の光が揺れていた。上質な香木の香りが漂う中、今日の主役は二人。一人はこの京を牛耳る悪代官、黒沼玄蕃。もう一人は、玄蕃に取り入り、その懐を肥やすことで自らも巨万の富を築き上げてきた越後屋宗右衛門である。
「越後屋、今宵もまた、そなたには厄介な相談があるでな」
玄蕃は分厚い羽織の襟元を直し、重々しい口調で切り出した。宗右衛門はすかさず、深々と頭を下げる。
「お代官様におかれましては、何なりとお申し付けくださいませ。この宗右衛門、お代官様のためならば、いかなる火の中水の中も辞しません」
その声には、微塵の迷いもなく、ただただ忠誠と、そしてその奥に潜む打算が滲んでいた。玄蕃は満足そうに頷くと、湯呑に注がれた上等な新茶をゆっくりと啜る。
「うむ。さて、越後屋。そなたも知っておろうが、今、幕府の中枢では穏やかならぬ空気が流れておる」
宗右衛門は息を呑んだ。京の市井に暮らす者には知る由もない幕府の深部、その情報を玄蕃が持ち出すからには、ただ事ではない。
「は、何か不穏な動きがございましょうか?」
「左様。大老職を巡って、藤堂派と水野派、二つの勢力が水面下で激しく鎬を削っておる。どちらが覇権を握るか、予断を許さぬ状況に変わりはない」
玄蕃は静かに語る。その目は、獲物を狙う鷹のように鋭い光を宿していた。
「なるほど、派閥抗争、でございますか」
宗右衛門は、その言葉を反芻するように呟いた。長年、玄蕃の懐刀として悪事を重ねてきた彼にとって、こうした政治の闇は、まさに金儲けの温床に他ならない。
「うむ。そして、我々はその渦中にあって、いかにしてこの荒波を乗り越え、更なる富を築き上げるか、それが今日の議題である」
玄蕃はにやりと口の端を上げた。宗右衛門もまた、その意味するところを瞬時に察し、顔に卑しい笑みを浮かべる。
「お代官様の御叡慮、この宗右衛門、心より感服いたしまする。しかし、具体的にはどのような策を……?」
「越後屋、そなたの財力と私の権力をもってすれば、いかなる困難も乗り越えられよう。この派閥争い、利用せぬ手はない」
玄蕃の声には、確固たる自信が満ちていた。
「この京には、日頃から我々のやり方に反感を抱く者どもが少なからずおる。奴らは表立っては何もできぬが、陰では水野派に密かに接近しているという噂もある」
「と申しますと、お代官様は、その者どもを焚きつけ、水野派の勢力を……」
宗右衛門は言葉を選ぶように慎重に尋ねた。玄蕃は首を振る。
「いや、逆だ。奴らを焚きつけ、藤堂派に接近させるのだ」
宗右衛門は目を見開いた。
「な、なぜでございましょうか? 水野派の方が、お代官様には近しいのでは……」
「浅はかよ、越後屋。今の状況で水野派に肩入れすれば、我々もろとも藤堂派の憎悪の標的となる。しかし、藤堂派に近づくことで、奴らを油断させ、その隙を突くのだ」
玄蕃の瞳には、冷徹な計算が宿っていた。
「なるほど……。お代官様の深謀遠慮、恐れ入ります。しかし、その者どもをどうやって藤堂派に近づけましょう?」
「そこが越後屋の腕の見せ所よ。奴らは皆、日頃の不満を鬱積させておる。そこで、そなたが藤堂派の者と密会し、まるで水野派の悪事をでっち上げた書状を渡し、奴らを唆すのだ」
「そのような危険な真似を……」
宗右衛門は一瞬ひるんだが、玄蕃の冷たい視線に、すぐにその顔から動揺が消えた。
「何を怯えておる、越後屋。それが金儲けの道に通じるのだ。そなたが藤堂派と接触し、水野派の横暴をことさらに強調するのだ。そして、その裏で、水野派の重鎮には、藤堂派が密かに反乱を企てているという偽情報を流す。さすれば、両派の対立は激化し、いよいよ泥沼の様相を呈するだろう」
玄蕃はさらに畳み掛ける。
「そして、その混乱に乗じて、我々は双方に武器や兵糧、さらには情報を売りつけるのだ。争いが激しくなればなるほど、その需要は高まる。想像してみよ、越後屋。軍用物資の値は高騰し、金の雨が降るぞ」
宗右衛門の顔に、再び卑しい笑みが浮かんだ。彼の脳裏には、金貨が山と積まれた光景が鮮やかに浮かび上がっていた。
「お代官様の仰せの通りでございます。争いが激しくなれば、必ずや物資が不足し、我々がその隙間を埋めれば、莫大な利益を得られまする。まさに、一石二鳥、いや、一石三鳥でございますな!」
「うむ。それに加えて、だ。この京には、我々が管理する隠し金山がいくつかあることはそなたも知っておろう?」
宗右衛門は頷いた。表向きは荒れ果てた山林だが、そこにはひそかに金脈が隠されており、玄蕃と越後屋の私腹を肥やすための秘密の財源となっていた。
「この派閥争いが激化すれば、幕府の目は内向きになり、そのような末端の金山にまで目が届かなくなる。その隙に、金山からさらに多くの金を掘り出すのだ。労働者には、貧しい者や、罪を犯した者どもを連れてきて、過酷な労働を強いる。反抗する者には、それ相応の報いをな」
玄蕃の声には、微塵の躊躇もなく、冷酷な響きがあった。
「お代官様、それはまさに、千載一遇の好機にございます! 労働者を増やし、生産を拡大すれば、さらに多くの金が我々の懐に転がり込むというわけですな」
「左様。しかし、それだけでは終わらぬ」
玄蕃は、不敵な笑みを浮かべた。宗右衛門は、ゴクリと唾を飲み込む。
「この京には、由緒ある寺社仏閣が数多く存在しておる。彼らは幕府から手厚い保護を受けており、その財産もまた莫大なものがある。この派閥争いの最中、寺社の者どももまた、どちらの派閥に付くべきか、戦々恐々としておる」
「と申しますと、お代官様は、その寺社の財産を……」
宗右衛門は、恐る恐る尋ねた。その胸中には、さらなる巨額の富への期待と、同時に、一抹の不安がよぎっていた。神仏をも恐れぬ悪行、それはいくら悪事に慣れた宗右衛門とて、少しためらう行為であった。
「心配するな、越後屋。我々が直接手を下すのではない。そなたが寺社の者どもに近づき、藤堂派が水野派を打ち倒した暁には、寺社への保護を剥奪し、その財産を没収するつもりだと吹き込むのだ」
「そのような大それた嘘を……」
「嘘ではない。事実とさせればよい。寺社の者どもは、己の身と財産を守るためならば、いかなる金も惜しまぬ。そこで、そなたが寺社の代表者となり、我々に多額の寄進を申し出るよう仕向けるのだ。その金は、藤堂派に献上する体で、大部分を我々の懐に収める」
玄蕃の声は、どこまでも冷酷であった。宗右衛門の額に、じわりと汗が滲む。しかし、その目には、金の亡者としての光が宿っていた。
「お代官様の御知恵、天晴れでございます! 寺社からの莫大な寄進、それは我々の財力をさらに盤石なものといたしましょう」
「うむ。そして、最終的にどちらかの派閥が勝利を収めれば、我々はその勝者にいち早く恭順の意を示し、これまでの貢献を訴えるのだ。さすれば、新たな政権下でも、我々は権益を確保し、更なる地位と富を築くことができる」
玄蕃は、満足そうに頷いた。宗右衛門もまた、その壮大な計画に鳥肌が立つ思いであった。
「お代官様、この宗右衛門、必ずやこの大計を成功させてみせまする! その暁には、お代官様も私も、京の都の真の支配者として、永久に君臨いたしましょうぞ!」
宗右衛門は、興奮を隠しきれず、玄蕃の顔を食い入るように見つめた。玄蕃は、ゆっくりと立ち上がり、窓の外の闇に目を向けた。
「越後屋、肝に銘じておけ。この世は力と金が全て。正義や道理など、まやかしに過ぎぬ。我々は、その真理を誰よりも理解しておる。だからこそ、我々は勝つのだ」
玄蕃の言葉は、闇夜に吸い込まれていくかのように響いた。宗右衛門は、その言葉を胸に刻み込み、再び深々と頭を下げた。
「御意にございます、お代官様。この宗右衛門、肝に銘じまする」
二人の間に、再び静寂が訪れる。しかし、その静寂は、新たな悪事の始まりを予感させる、不気味な静けさであった。夜は更け、月明かりが二人の影を長く伸ばす。派閥抗争という大義名分の裏で、悪代官と越後屋の金儲けの密談は、静かに、そして着実に進められていくのであった。
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