悪代官と越後屋の密談「絵巻物から這いずり出る怨霊」

夕闇が濃く、油断すれば闇に呑まれそうな屋敷の一室。行灯の朧な光が、豪華な調度品に奇妙な影を落としている。上座には、重厚な絹の羽織を身につけた黒沼玄蕃。その威圧的な佇まいとは裏腹に、鋭い眼差しはすでに獲物を定めているようだった。向かい合うように座るは、越後屋宗右衛門。その卑屈な笑みは、権力者のご機嫌を伺うことに慣れきった商人の顔そのものである。

「して、越後屋。先の普請の件、首尾は上々であったな」

玄蕃が口火を切る。その言葉は褒めているようで、越後屋の懐具合を探るようでもあった。

「ははっ、お代官様のお力添えあってのことでございます。普請奉行も、この越後屋めが差し上げた金品に大層ご満悦のご様子で…」

宗右衛門は、すり寄るように身を乗り出し、にやにやと笑う。

「ふん。まあよい。で、そなたも相応の儲けがあったのであろう?」

玄蕃はつまらなそうに茶を一口含む。越後屋は、待ってましたとばかりに小袖の中から小さな帳面を取り出した。

「お代官様には、いずれお喜びいただけるよう準備をしております。ただ今宵は、もっと大きな儲け話をご相談にあがりまして…」

そう言って、越後屋は周囲をぐるりと見渡す。玄蕃は、そんな越後屋の様子に焦れったさを感じながらも、その言葉に興味を引かれた。

「ほう。この普請の件よりも、か? 大層なことだ。申してみよ」

「は、お代官様。実は先日、奇妙な噂を耳にしましてございます」

越後屋は小声になり、さらに玄蕃へと近づく。

「江戸の市井に、とある珍しい絵巻物があるとのことで…それが、ただの絵巻物ではございませんで…」

越後屋は言葉を切り、玄蕃の反応を伺う。玄蕃は、無言で続きを促した。

「その絵巻には、呪いがかけられておるとのことでございます。なんでも、その絵巻を一度見てしまいますと、七日経たぬうちに、絵巻の中から抜け出てきた怨霊が、その者の命を奪うと」

玄蕃は眉間に深い皺を寄せ、興味なさそうに鼻で笑う。

「馬鹿馬鹿しい。世迷い言を真に受けておるのか、越後屋。絵巻から怨霊が出てくるなど、あり得ぬこと」

「いえいえ、お代官様。それが事実なのです。わたくしめの商売敵である大黒屋が、その絵巻の噂を笑い飛ばし、見せてもらったそうで…それが、七日後、本当に…」

越後屋は、わざとらしく声を潜め、震えるような仕草を見せる。

「…大黒屋の主人は、屋敷の蔵の中で、髪の長い女の怨霊に首を絞められ、息絶えていたそうでございます」

玄蕃の表情が、少しばかり真剣になった。

「ほう…そのようなことが。それは、ただの偶然ではあるまいな?」

「左様でございます。その後も、その絵巻を見た者たちが次々と同じような不審な死を遂げているとのことで…」

越後屋は、さらに玄蕃へと近づき、耳元で囁く。

「そこで考えました。この呪いの絵巻を、我らが手にし、大金に替えることはできぬものかと」

玄蕃は、ふっと薄ら笑いを浮かべた。越後屋の魂胆が、ようやく見えてきた。

「して、どうするつもりだ? その絵巻を市井の者に売りつけ、呪いで死んだところで、我らの懐は潤うまい」

「いえ、お代官様。そうではございません。まず、その絵巻を大金を積んで手に入れましてございます。そして、その呪いの噂を大袈裟に吹聴し、江戸中の者たちを震え上がらせるのでございます」

「…その先は?」

「その先に、この越後屋が、その呪いを解くことができる『霊験あらたかなお札』を売るのです」

玄蕃の目が、ぎらりと光る。越後屋の言うことが、俄かに現実味を帯びてきた。

「…なるほど。絵巻の呪いの噂を流し、恐怖を煽り、その恐怖を金に替える、というわけか」

「ははっ、その通りでございます、お代官様。市井の者は、一度信じてしまいますと、理屈など通用しません。ましてや、命がかかっているとなれば…」

「ふむ。しかし、絵巻の呪いが本当ならば、そのお札が効くという確証はないな」

「ご安心ください、お代官様。お札は、効き目がなくとも構わないのです。絵巻を見せた相手には、事前に『このお札を身につけていれば、決して呪いは降りかからない』と、わたくしめが言い含めておきます。万が一、死者が出たとしても、それは『お札を身につけるのを忘れた』とか、『呪いの力があまりにも強かった』とか、いくらでも言い訳はできましょう」

玄蕃は、越後屋の狡猾な思惑に、満足げに頷いた。

「面白い。それで、そのお札とやらを、誰に作らせるつもりだ?」

「お代官様の御用達の寺にございます、あの高僧…」

「ふん。あの男なら、金さえ積めば喜んで筆を執るであろうな」

「左様でございます。そして、その絵巻を実際に見た者だけが、その呪いから逃れる術として、この『お札』を手に入れることができる、という触れ込みで…」

「待てよ、越後屋。それでは、その絵巻を見せた者はどうなるのだ? そなたが最初に絵巻を見せ、その後、それを売るのだとすれば、そなた自身も…」

越後屋は、不敵な笑みを浮かべ、懐から小さな包みを取り出した。

「ご心配には及びません、お代官様。わたくしめが手に入れた絵巻には、仕掛けがしてあります。この絵巻を、人から人へと見せさせ、その度にわたくしめが裏で糸を引いて金儲けをする。わたくしめが直接見ることはございません」

玄蕃は、その周到さに感心したように、目を細めた。

「して、その儲けの配分は?」

「お代官様には、絵巻を広める手伝いをしていただけるだけで、この越後屋めが手にする儲けの半分を…」

「半分だと? ふざけるな。この玄蕃が、そのような薄汚い商売に手を貸すというのに、半分とはな」

玄蕃は、鋭い眼光で越後屋を睨みつけた。越後屋は、慌てて頭を下げ、冷や汗を流す。

「ひ、ひえぇ…申し訳ございません、お代官様! では、六、いや、七割で!」

「ふん。わかった。それでよい。だが、この話、決して口外するでないぞ」

「ははっ、もちろんのことでございます。わたくしめが、この世を去るときも、あの絵巻の呪いで、口がきけぬように死ぬことになりましょうから…」

越後屋は、卑屈な笑みを浮かべたまま、玄蕃に深々と頭を下げた。二人の間に交わされた密談は、夜の闇に紛れて消えていった。しかし、その夜から、江戸の街に奇妙な絵巻物の噂が、じわじわと広がり始めたのであった。