じめじめとした梅雨の長雨が続く、とある夏の夜。江戸の町の片隅にある黒沼玄蕃の屋敷では、障子の向こうで提灯の明かりが揺れ、ひそやかな話し声が漏れ聞こえていた。上座に座るは、この地の悪代官として悪名を馳せる黒沼玄蕃。その向かいに座り、深々と頭を下げているのは、玄蕃に取り入って私腹を肥やす呉服問屋「越後屋」の主人、越後屋宗右衛門である。
「越後屋、今日の話はそちにとっても、わしにとっても、まことに美味い話となるはずじゃ。心して聞くがよい」
玄蕃はにやりと口の端を上げ、脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべた。越後屋は背筋を伸ばし、唾をゴクリと飲み込む。玄蕃の言葉には、いつも金儲けの匂いが付きまとっていた。
「ははぁ、お代官様のお話とあれば、この宗右衛門、何なりと拝聴いたしまする」
「うむ。近頃、江戸の市中に貧しい者どもが増えておることはそちも知っておろう。飢えに苦しみ、住む家もなく、日々の糧にも事欠く者たちがな」
玄蕃の言葉に、越後屋は小さく頷く。確かに、近年江戸では農村からの流入者や職を失った者たちが増え、貧困が深刻化していた。
「そのような者どもを、我らの手で『救ってやる』のじゃ」
玄蕃はわざとらしく「救ってやる」という言葉を強調した。越後屋の眉間にわずかにしわが寄る。
「救う、とおっしゃいますと…?」
「ふふふ。越後屋、そちはまことにお堅い。もちろん、ただで救うわけではない。貧しい者どもを食い物にするのじゃ。これぞまさに、貧困ビジネスというものよ」
玄蕃の言葉に、越後屋の顔に徐々に色めき立つような表情が浮かぶ。
手口の考案:救済に見せかけた搾取
「具体的には、どのようにして貧しい者どもから金を引き出すのでございましょうか」
越後屋が前のめりになって尋ねた。玄蕃は扇子で顔を仰ぎながら、得意げに語り始める。
「まず、貧しい者どもを囲い込むための場所を用意する。いわば『救済所』とでも名付けるか。そこでは、日雇いの仕事を斡旋してやる名目で、奴らを働かせるのじゃ」
「日雇いの仕事、でございますか」
「うむ。ただし、その賃金は雀の涙ほど。そして、そのわずかな賃金の中から、食費や寝床代として高額な金を徴収する。どうじゃ、越後屋。これなら、奴らはいくら働いても借金が膨らむばかりで、永遠にわしらの手から逃れられぬ」
玄蕃は高笑いした。越後屋もまた、そのえげつない手口に感嘆の声を上げる。
「さすがはお代官様! 恐れ入谷の鬼子母神でございます! しかし、そのようなやり方が表沙汰になれば、お上も黙ってはおりますまい」
「心配ご無用。そこはわしが手を回す。それに、奴らが飢え死にすることなく、住む場所も与えてやった、と世間には触れ回るのじゃ。貧しい者どもを救う慈悲深い代官、とな」
玄蕃の言葉に、越後屋は深く頷いた。民衆の目を欺き、自らの悪行を正当化する玄蕃の手腕に、越後屋は心底感服していた。
「なるほど、お代官様のお考えは、常にわたくしどもの一歩先を行っておられます」
越後屋の役割:金貸しと物資調達
「越後屋、そちにはいくつか重要な役割がある」
玄蕃は越後屋をじっと見つめた。
「は、何なりと」
「まずは、この『救済所』の運営資金を調達すること。もちろん、利子はたっぷりつけて返してやる」
「かしこまりました。手持ちの金はございますゆえ、すぐにでもご用意いたします」
越後屋は算盤を弾くような目で答えた。
「次に、奴らに売りつける食料や日用品の調達。質の悪いものを高値で売りつけるのじゃ。どうせ奴らは文句も言えまい」
「お安い御用でございます。先日、飢饉に苦しむ村から安値で買い叩いた米が山ほどございます。これを混ぜて、嵩増しいたしましょう」
越後屋の口から、さらに悪辣なアイデアが飛び出した。玄蕃は満足げに頷く。
「うむ、そのほうの抜かりなさには感心する。そして最後に、最も重要なことじゃが…」
玄蕃の声のトーンが一段と低くなった。
「この『救済所』から逃げ出そうとする者が出た場合、しっかりと取り締まること。もちろん、わしが手配した手下も手伝わせるが、越後屋、そちも手を貸せ」
「お代官様、それは…」
越後屋の顔に一瞬、怯えの色が浮かんだ。しかし、玄蕃の冷たい視線に晒され、すぐに居住まいを正した。
「ははぁ、承知いたしました。この宗右衛門、お代官様のためならば、いかなる汚れ仕事も厭いません」
越後屋は心の中で、今回の儲けで手に入れる莫大な利益を思い描いた。そのためならば、多少のリスクは覚悟するしかなかった。
利益の分配:そしてさらなる悪だくみへ
「では、利益の分配じゃが…」
玄蕃は指を一本立てた。
「まずは、わしが半分。残りの半分をそちと、わしの手下で分け合う」
「お代官様、それは少々…」
越後屋が不満げな顔をした。いつもは玄蕃の取り分が三割から四割程度だったからだ。
「何を言うか、越後屋。この件は、わしが全面的に後ろ盾となるのだ。それに、お上の目をごまかすのも容易ではない」
玄蕃の威圧的な口調に、越後屋はそれ以上何も言えなかった。しかし、それでもなお、今回の儲けが尋常ではない額になることは間違いなかった。
「ははぁ、お代官様のおっしゃる通りでございます。この宗右衛門、異存はございません」
「うむ。よろしい。この貧困ビジネス、大々的に展開すれば、飢饉に見舞われた村からも貧しい者どもが押し寄せてくるであろう。そうなれば、我らの懐は雪崩を打って潤う」
玄蕃はほくそ笑んだ。越後屋もまた、金の亡者と化した目で、玄蕃に媚びへつらう。
「お代官様の知恵には、いつも感服させられまする。まさに、天下の黒沼玄蕃様でございます」
越後屋の露骨な賞賛に、玄蕃はさらに上機嫌になった。
「ふふふ。越後屋、そちもなかなか見どころがある。この件が成功すれば、そちを江戸一番の大店にしてやることも吝かではないぞ」
「お代官様、もったいないお言葉でございます! この宗右衛門、お代官様のためならば、骨の髄までしゃぶり尽くされても本望でございます!」
越後屋は頭を下げ、卑屈な笑みを浮かべた。二人の間の密談は、夜が更けるまで続いた。貧しい者たちの絶望を食い物にする、非道な計画が、この夜、着々と練り上げられていったのである。
外では、相変わらず雨がしとしとと降り続いていた。まるで、二人の悪行を洗い流すかのように。しかし、その雨が、彼らの汚れ切った魂を清めることは決してなかった。それどころか、雨音は二人の密談をさらに隠密にし、悪だくみを加速させているかのようだった。
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