悪代官と越後屋の密談「WHOの闇」

「越後屋、今日の月もまた、おぬしの懐を思わせるほど、まことに肥えておるな」

黒沼玄蕃は、上座に座したまま、したり顔で目の前の商人、越後屋宗右衛門に語りかけた。月明かりが障子越しに差し込み、座敷の奥に鎮座する高級そうなつぼを幽かに照らし出す。越後屋は恐縮しきった様子で平伏している。

「もったきお言葉にございます、お代官様。しかし、これもひとえに、お代官様のお導きあってのこと。私のような下賤の者が、いかほど才覚を巡らせようと、お代官様のお力添えなくしては、この富を築くことなど夢のまた夢にございます」

越後屋は頭を畳に擦り付けんばかりに平伏し、心底から感謝しているかのように聞こえる言葉を並べた。しかし、その声には、わずかながらも自らの手腕に対する自負が滲み出ていた。玄蕃は、そんな越後屋の心中を見透かしたように、薄く笑みを浮かべた。

「ふむ、越後屋よ。そちは相変わらず、口が上手い。だがな、その口の達者さが、わしを、いや、この世を渡っていく上で、いかに強力な武器となるか、そちはよく心得ておる。さて、今宵は、月の美しさに感嘆するだけではもったいない話がある。いや、月の美しさにも勝る、あるいは凌駕するほどの、実に興味深い儲け話よ」

玄蕃はそう言うと、手にした扇子で、座敷の隅に置かれた茶器を軽く指し示した。越後屋は心得たりとばかりに、素早く立ち上がり、用意された高級な宇治茶を玄蕃の前に差し出した。湯気が立ち上り、芳醇な香りが座敷を満たす。玄蕃は一口茶を啜ると、満足げに頷いた。

「越後屋、聞けばそちは、近頃、西のほうの異国の文物を手に入れたとか」

「は、お代官様。さようでございます。商いの縁あって、遠く南蛮の国より取り寄せた書物にございます」

越後屋はそう言って、脇に置いてあった小ぶりの包みを玄蕃に差し出した。玄蕃が包みを開けると、中から現れたのは、見慣れない文字で記された分厚い書物だった。表紙には、奇妙な紋章が描かれている。

「これは…」

玄蕃は興味深げに書物を手に取った。

「お代官様、それは『世界保健機関』と申しまして、世界中の人々の健康を司るという、まことに尊い組織の成り立ちを記した書物と聞いております」

越後屋は、畏まることなく、玄蕃に解説した。

「せかい…ほけん…きかん、とな? ふむ、さも高尚な響きよ。だがな越後屋、わしが聞きたいのは、その建前ではない。この世の表裏を知り尽くしたそちならば、この組織の奥底に潜む、真の姿が見えているはず。そうであろう?」

玄蕃は、越後屋の目を見据え、探るような視線を送った。越後屋は一瞬、ためらったが、すぐに覚悟を決めたように口を開いた。

「お代官様のお見通しにございます。お代官様がおっしゃる通り、この『世界保健機関』とやらも、表向きは人々の健康を守る崇高な目的を掲げておりますが、その実態は…」

越後屋はそこで言葉を区切ると、周囲をちらりと見回した。玄蕃は「案ずるな」とばかりに手を振った。

「申してみよ、越後屋。ここにおるのは、そちとわしのみ。それに、今宵の密談は、壁に耳あり障子に目ありと言えど、誰にも漏れることはない。なにしろ、この部屋は、特別にあつらえたもの。音は外には漏れぬし、光も漏れぬ。まさに、天国と地獄の境に存在する、秘密の隠し部屋よ」

玄蕃の言葉に、越後屋は安心したように息をついた。

「ははあ、お代官様のお心遣い、恐悦至極にございます。では、本音を申し上げますと、この『世界保健機関』と申す組織、まことに金の匂いがいたします。それも、並大抵の匂いではございません。嗅いだこともないほどの、甘く、そして濃厚な、金の匂いでございます」

越後屋はそう言って、にやりと笑った。玄蕃もまた、満足げに頷いた。

「やはりな、越後屋。わしが見込んだだけのことはある。で、その甘く濃厚な金の匂い、具体的には、どのような仕掛けがあるのだ?」

「お代官様、この組織は、世界中の健康に関する情報を集め、それを基に、病の流行や、新たな薬の必要性などを提言する権限を持つそうでございます。つまり、彼らが『病である』と定めれば、それが病となり、彼らが『必要である』と定めれば、それが世に必要とされる、というわけでございます」

「なるほど…」

玄蕃は、興味深げに腕を組んだ。

「つまり、彼らが病を作り出せば、その病を治すための薬もまた、作り出すことができる、と申すか?」

玄蕃の言葉に、越後屋はさらに身を乗り出した。

「お代官様、まさにその通りでございます! 彼らが特定の病を『流行している』と発表すれば、その病に対応する薬や治療法が、世界中で求められるようになります。そして、その薬や治療法を提供するのが、彼らと深く結びついた、特定の製薬会社や医療機器メーカーなのでございます」

「ほう…」

玄蕃の目が、ギラリと光った。

「つまり、彼らが病を煽り、我らが薬を売りつけ、莫大な利益を得る、という構図か。実に巧妙な仕組みよな」

「さようでございます、お代官様。しかも、彼らは『世界の健康のため』という大義を掲げておりますゆえ、誰もその真意を疑うことはございません。むしろ、感謝の念すら抱くほどにございます。これほど美味い話が、他にございましょうか」

越後屋は興奮したように語った。

「ふむ、確かに美味い話よな。だが、越後屋、そこにはまだ、深みがあるはず。単に病を煽り、薬を売るだけでは、そこまで莫大な富は築けぬはず。他に何か、秘策があるのではないか?」

玄蕃の問いに、越後屋はさらに声を潜めた。

「お代官様、ご明察にございます。この『世界保健機関』と申す組織、実は、世界中の医者や研究者たちを、その傘下に収めております。彼らは、この組織の提言に従い、病の診断や治療を行うわけでございます。つまり、病の定義から治療法に至るまで、彼らが全てを掌握していると言っても過言ではございません」

「なんと…」

玄蕃は思わず唸った。

「それはすなわち、病の概念そのものを、彼らが自由に操れるということか?」

「左様にございます! 例えば、風邪のようなありふれた病であっても、彼らが『新型の恐ろしい病である』と発表すれば、人々はパニックに陥り、高額な検査や薬を求めるようになります。そして、その検査や薬は、全て彼らと繋がりのある者たちが提供するわけでございます」

「なるほど、なるほど…」

玄蕃は、まるで美味しい獲物を見つけたかのように、口元を歪ませた。

「そして、その高額な検査や薬の費用は、全て民衆が負担する、と。まことに、どこまでも民衆から搾り取る仕組みよな。越後屋、では、我らがこの『世界保健機関』の闇に、いかようにつけ入ればよいのだ?」

玄蕃は、越後屋に、具体的な策を促した。

「お代官様、まず第一に、この組織が発表する『新たな病』に、我々も積極的に便乗することでございます。例えば、彼らが『疫病が流行している』と発表すれば、我々はその疫病に対応する薬や治療法を、先行して製造し、高値で売りつけるのでございます」

「ふむ、それは定石だな。だが、それだけでは飽き足らぬ。もっと、根本から富を吸い上げる方法はないのか?」

玄蕃は、さらに貪欲な目で越後屋を見つめた。

「お代官様、では、このような策はいかがでございましょう。この『世界保健機関』の内部に、我々の息のかかった者を潜り込ませるのでございます。そうすれば、彼らが次にどのような『病』を作り出すのか、事前に情報を得ることができ、さらに有利に立ち回ることができます」

「ほう! それは面白い。まるで、敵の懐に入り込み、内部から食い破るようなものよな。で、その潜り込ませる人物は、どのような者が適任であろうか?」

玄蕃の問いに、越後屋は自信満々に答えた。

「お代官様、適任の者がおります。それがしが長年囲っております医師でございます。彼は、南蛮の医学にも精通し、かつ、人の心を巧みに操る術にも長けております。彼を『世界保健機関』の要職に送り込めば、我々の意のままに情報を操り、病の流行を演出することも可能となりましょう」

「なんと! それはまことに素晴らしい。越後屋、そちはまことに、才覚に溢れておるな。では、その医師とやらを、いかにして送り込むのだ?」

「お代官様、それはご心配には及びません。この組織、表向きは公正を謳っておりますが、実態は、金と権力に弱い者ばかり。我々が、裏から多額の献金を送り、表向きは『慈善事業』と称して、その医師を推薦すれば、難なく潜り込ませることができましょう」

越後屋は、悪びれる様子もなく、悪辣な計画を語った。玄蕃は、越後屋の言葉に満足げに頷いた。

「ふむ、見事な手並みよな、越後屋。そして、もう一つ、儲け話を仕掛けたい。病は人々の心に不安を抱かせる。その不安を煽ることで、さらに金儲けをする方法はなかろうか?」

玄蕃の問いに、越後屋はさらに目を輝かせた。

「お代官様、おっしゃる通りでございます! 病の恐怖は、人々の心を支配する力がございます。我々は、その恐怖をさらに煽ることで、新たな商機を生み出すことができるのでございます」

「ほう、具体的に申してみよ」

「例えば、お代官様。我々が『病の予防には、特別な護符が必要である』と触れ回るのでございます。そして、その護符を、法外な値段で売りつけるのでございます。愚かな民衆は、病の恐怖に怯え、我々の言葉を信じ、我先にと護符を買い求めることでございましょう」

「なるほど、それは面白い! まるで、病を餌に、民衆の不安を食い物にするようなものよな。だが、その護符とやら、いかにも胡散臭い。民衆が疑念を抱かぬよう、何か仕掛けは必要ではないか?」

玄蕃の疑問に、越後屋は胸を張った。

「お代官様、ご心配には及びません。我々が売りつける護符は、単なる紙切れではございません。その護符には、ある『仕掛け』を施すのでございます。例えば、その護符を身につけた者が、実際に病にかかりにくくなった、という噂を流すのでございます。もちろん、それは偶然か、あるいは、気の持ちようによるものでございましょうが、人々は、その護符の効果を信じることでございましょう」

「ふむ、それは巧妙な手口よな。まるで、民衆の迷信を逆手に取るようなものよな。そして、その噂を広めるためには、どのようにすればよいのだ?」

「お代官様、それは容易いことでございます。我々が抱える手下を使い、町中に偽の病人をばら撒き、護符の効果を喧伝させるのでございます。そうすれば、人々は噂を信じ、我先にと護符を買い求めることでございましょう」

越後屋は、悪巧みを語ることに快感を覚えているようだった。玄蕃もまた、越後屋の提案に満足げに頷いた。

「越後屋、そちはまことに、商いの才覚に長けておる。この『世界保健機関』の闇は、我らにとって、まさに金の山よな。この機会を逃す手はない。越後屋、そちは、この密談の内容を、いかほども漏らしてはならぬぞ。もし、この話が外部に漏れるようなことがあれば…」

玄蕃は、そこで言葉を切ると、越後屋の首に、するどい視線を突き刺した。越後屋は、全身を震わせ、平伏した。

「お代官様、ご心配には及びません! この越後屋宗右衛門、お代官様のお膝元で、これまでも数々の密談を交わして参りました。この口は、固く閉ざされております。もし、この話が漏れるようなことがあれば、この宗右衛門、腹を切ってお詫びいたします」

越後屋は、そう言って、深々と頭を下げた。玄蕃は、越後屋の言葉に満足したように頷いた。

「よろしい、越後屋。では、早速、その策に取り掛かるのだ。まずは、その医師とやらを、早急に『世界保健機関』に送り込め。そして、新たな『病』の情報を、いち早くわしのもとに届けよ。そうすれば、わしは、この地の民衆を、病の恐怖で支配し、その恐怖を糧に、莫大な富を築き上げることができる。そして、そちは、その富の恩恵に預かることができるのだ」

玄蕃は、そう言い放ち、高らかに笑った。越後屋もまた、玄蕃の笑い声に合わせるように、にやりと笑った。月は、座敷の外で、二人の悪代官の悪辣な企みを、静かに見下ろしていた。

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