夏の盛り、蝉しぐれが降り注ぐ黒沼玄蕃の屋敷の奥座敷には、ひやりとした空気が漂っていた。絢爛豪華な調度品に囲まれながらも、どこか澱んだその空間で、黒沼玄蕃と越後屋宗右衛門は向かい合っていた。玄蕃は上質な絹の着物をゆったりと纏い、扇子を静かに動かしている。その眼光は、鋭くも底知れぬ企みを宿していた。対する越後屋は、いかにも丁重な商人といった風情で、深々と頭を下げている。しかし、その目にはぎらついた欲望の炎が見え隠れしていた。
「越後屋、よう来たな」
玄蕃が低い声で切り出した。
「ははぁ、お代官様には、ご機嫌麗しく」
越後屋は深々と頭を下げる。
「うむ。して、例の件はどうなっておる?」
玄蕃の言葉に、越後屋の顔ににやりとした笑みが浮かんだ。
「お代官様のご慧眼には、誠に恐れ入りまする。まさに今、仕上げの段階でございます」
「ほう。ぬかりはないな?」
「もちろんでございます。この越後屋めが、お代官様のお眼鏡にかなうよう、入念に仕込んでおりますゆえ」
玄蕃は満足げに頷いた。
「して、今日の話しはなんだ。わしの耳を楽しませてみせよ」
越後屋は懐から一枚の書状を取り出し、玄蕃に差し出した。玄蕃はそれを一瞥し、やがて興味深そうに眉をひそめた。
「ふむ……揉め事の仲裁、か。面白いではないか」
玄蕃は扇子を閉じ、書状を畳に置いた。
「越後屋。近所の揉め事を金にするとは、なかなか粋な発想ではないか」
「ははぁ、お代官様のご明察には、この越後屋、感服仕ります。近頃、長屋や町屋では、些細な近所付き合いのいざこざが頻発しておりまして。そこにつけ込む隙があると見抜かれたお代官様には、誠に恐れ入ります」
「うむ。人間というものは、案外と近しい者にこそ、嫉妬や妬みを抱くものよ。特に、日々の暮らしの中で顔を合わせる相手にはな」
玄蕃はそう言って、冷たい笑みを浮かべた。
「例えば、些細な貸し借り、子供の喧嘩、井戸端での立ち話の行き違い、夜の騒音、飼い犬の糞尿の始末。些細な事柄が積もり積もって、やがては大きな揉め事になるのだ。
「越後屋、そちはそれらをどのように金にするつもりだ?」
玄蕃の問いに、越後屋はにやりと笑った。
「お代官様、まずは『近所付き合い円満仲裁所』と銘打ち、表向きは和解を促す機関を設けます。しかし、その実態は……」
越後屋は声を潜めた。
「和解には法外な手数料を請求いたします。もちろん、仲裁が不調に終われば、当然、高額な手数料を要求する手はずでございます。そして、いざとなれば、お奉行様のお沙汰への斡旋も行います。もちろん費用は依頼人持ち。勝っても負けても、我らの懐は潤う仕組みでございます」
「ふむ、なかなか巧妙な手口ではないか」
玄蕃は顎を撫でた。
「しかし、それだけでは飽き足らぬ。さらなる策はないのか、越後屋」
「お代官様、ご期待に添えるよう、もう一つの秘策がございます。それは『近所付き合い保険』でございます」
「保険だと?」
玄蕃の目が光った。
「ははぁ。これは近所との揉め事が起こった際に、その損害を補填するという名目の商品でございます。例えば、隣家との境界線争いで塀を建て替える費用、騒音による慰謝料、あるいは迷惑行為による精神的苦痛への見舞金など、様々な事柄に対応すると謳います」
「それはまた、いかにも人情味あふれる聞こえではないか。しかし、その実態は?」
玄蕃が尋ねると、越後屋はにやりと笑みを深めた。
「保険金を受け取るには、複雑な書類提出と審査を設け、容易には支払われません。万が一支払うことになっても、減額の理由をいくらでも見つけられます。また、契約時には様々な特約を付け、結局は保険料が積み重なり、保険金よりもはるかに多くの金を巻き上げる仕組みでございます。保険金が支払われるのは、ごく稀なケースで、ほとんどの顧客は掛け捨てとなるよう巧妙に仕向けます」
「なるほど、それは面白い。保険という名目で、人々の不安を煽り、金を吸い上げるわけか」
玄蕃は満足げに頷いた。
「しかし、越後屋。これらには、一つ懸念がある。それは、民衆の反発よ。いくら巧妙に仕込んだところで、度が過ぎれば、恨みを買うことにもなりかねん」
「ご心配には及びません、お代官様」
越後屋は自信満々に答えた。
「この保件には、大義名分がございますゆえ。例えば、近所付き合いが希薄になった社会において、人々の心が荒廃している。その心の隙間につけ込み、悪事を働く者がいる。そのような輩から人々を守るために、我々が立ち上がったのだ、と」
「ほう、それはまた、耳障りの良い言い訳ではないか」
玄蕃はにやりと笑った。
「その通りでございます、お代官様。人々は『近所付き合い』という耳障りの良い言葉に惑わされ、我らの真の目的を見抜くことはできませぬ。さらに、近所トラブルに悩む人々は、藁にもすがる思いで我々に頼ってくるでしょう。彼らは、たとえ高額な費用を請求されようとも、現状からの解放を望むあまり、文句を言わぬはずです」
「うむ。それに、隣近所の揉め事は、公にはしにくいものよな。だからこそ、そちらで秘密裏に事を運べるというわけか」
玄蕃は感心したように頷いた。
「それに、近所付き合いが深すぎれば、それはそれで煩わしいもの。監視し合ったり、干渉し合ったり。それらを巧みに利用するのだな」
「ははぁ、お代官様のおっしゃる通りでございます。例えば、近隣の目が煩わしいと感じる者には、引っ越しを勧め、その斡旋料も頂戴いたします。もちろん、引っ越し先も我々が管理する物件でございます」
越後屋の言葉に、玄蕃の顔に満面の笑みが浮かんだ。
「越後屋、そちはやはり見どころがある。この件、わしは大いに期待しておるぞ」
「お代官様のご期待に背かぬよう、この越後屋、粉骨砕身努力いたしまする」
「うむ。しかし、調子に乗って足元をすくわれることのないよう、くれぐれも抜かりなく頼むぞ」
玄蕃の言葉に、越後屋は深々と頭を下げた。
「ははぁ、肝に銘じまする」
越後屋はそう言って、懐から分厚い包みを取り出し、玄蕃の前にそっと置いた。玄蕃はそれを一瞥し、満足げに頷いた。
「うむ、ご苦労であった。越後屋、そちの働きには、常々感心させられている。今後も、わしを飽きさせぬよう、精進するのだぞ」
「ははぁ、お代官様のお言葉、この越後屋、身に余る光栄にございます。引き続き、お代官様のご期待に沿えるよう、尽力いたします」
越後屋は再び深々と頭を下げ、静かに奥座敷を後にした。残された玄蕃は、広がる畳の上に置かれた包みを満足げに見つめていた。彼の脳裏には、近所付き合いという人間の営みから搾取される、膨大な富の幻影が描かれていた。
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