悪代官と越後屋の密談「マスメディアの闇」

夕闇迫る黒沼玄蕃の屋敷。しとしとと降り続く梅雨の雨音が、座敷に満ちる重苦しい空気を一層際立たせる。上質な調度品に囲まれた一室で、黒沼玄蕃は不機嫌そうに扇子をあおいでいた。その向かいには、いかにも人の良さそうな顔をしながらも、目の奥に鋭い光を宿す越後屋宗右衛門がかしこまっている。

「越後屋、今日の商いはどうであった」

玄蕃の声は、普段よりも一段と低く響いた。

「は、お代官様におかれましてはご健勝のほど、なによりでございます。お陰様で、本日も滞りなく、商いの方も順調に相進んでおりまする」

越後屋は深々と頭を下げ、にこやかに答える。しかし、玄蕃の表情は晴れない。

「そうか。順調か。だがな、越後屋。どうにも最近、世の動きが気に食わん。お上は何かと倹約だの、民の暮らしがどうだのとうるさいが、実際に民の暮らしが良くなったという話はとんと聞かぬ。むしろ、不平不満の声ばかりが耳に入るではないか」

玄蕃は畳に手をつき、忌々しげに吐き捨てた。

「ははあ。さようございますか。しかし、お代官様のご采配あればこそ、この江戸の平和が保たれておりますれば、民もいずれは理解いたしましょう」

越後屋は相変わらず調子の良いことを言う。玄蕃はちらりと越後屋に視線を向けた。

「口先ばかりは達者なことよ。だが、そちも薄々感じておるはずだ。この世の歪みを。特に、近頃耳にする『マスメディア』とかいう代物。あれがどうにも厄介でならん」

「マスメディア、でございますか」

越後屋は首を傾げる。

「うむ。なんでも、遠く離れた異国の地で生まれた、情報を伝える新たな手段だとか。瓦版や講釈師などとは比べ物にならぬ速さで、あっという間に世間に広まると申す」

玄蕃は眉間に皺を寄せ、難しい顔をする。

「それはまた、恐ろしきものにて。しかし、それはお上にとって、民衆を導く良い道具となるのではございませんか? 瓦版とて、時として民の不満を煽るものもございますが、上意下達の道具として使えば、これほど便利なものもございませぬ」

越後屋は、いかにも利口そうに答える。

「馬鹿め。そちには、この闇が見えぬか。確かに、表向きは『世の真実を伝える』だの『民の知る権利を守る』だのと、もっともらしいことを申しておる。しかし、ワシにはどうにも胡散臭く思えてならぬのだ」

玄蕃は顔を越後屋に近づけ、低い声で囁いた。

「例えば、そちも知っておろう。先の飢饉の折、某藩の領民が暴動を起こした件。あの時、瓦版には『藩主の苛政に耐えかねた民が蜂起した』と書かれておった。だが、実情はどうか。ワシらが密かに調べさせたところ、飢饉に乗じて私腹を肥やそうとした悪党が、巧妙に民を煽動した結果ではないか」

「は、さようでございましたな。あの件は、お代官様のご慧眼にて事なきを得ました」

越後屋は畏まったふりをするが、内心では自分もその悪党の一味だったことを思い出し、冷や汗をかく。

「だが、マスメディアとやらが、もしあの悪党の手先となって、真実を捻じ曲げて報じたとしたらどうなる。たちまちにして、藩主は悪者に仕立て上げられ、民の支持を失うだろう。そして、世は混乱し、最終的に得をするのは、陰で糸を引く連中だ」

玄蕃は、忌々しそうに拳を握りしめる。

「なるほど…。それは確かに、恐ろしきこと。しかし、お代官様。なぜ、そのようなことを、わざわざ『闇』とまでおっしゃるのですか? 瓦版とて、金次第でどうとでもなるものでございます。それと同じなのでは?」

越後屋は、探るような目で玄蕃を見つめる。

「ふん。そこが問題なのだ、越後屋。瓦版は、あくまで個別の情報源に過ぎぬ。真偽はともかく、受け取る側も、ある程度は疑ってかかるものだ。だが、このマスメディアとやらは違う。まるで、それが『唯一の真実』であるかのように、世間に浸透していく。民衆は、疑うことを知らぬまま、その情報に踊らされる。これが恐ろしいのだ」

玄蕃は、熱を帯びた口調で語る。

「例えば、この江戸に新たな政策を敷こうとする際、もしマスメディアがその政策に反対の立場を取ったとする。するとどうなる。連中は、あらゆるところから都合の良い情報を集め、あるいは作り上げ、あたかもその政策が悪であるかのように喧伝するだろう。そして、それに踊らされた民衆は、お上の真意を知らぬまま、政策に反対する声を上げる。結果として、いくら良い政策であろうと、実行に移すことすら難しくなる」

「それは…、確かに厄介でございますな。しかし、お代官様。我々も、これまでの商いの中で、噂を流したり、逆の情報を流したりして、競合を潰してきたではございませんか。それと同じように、我々がマスメディアとやらを味方につければ良いだけでは?」

越後屋は、にやりと笑った。

「そのほう、浅はかなり。瓦版や噂話程度ならば、金でどうにでもなる。だが、このマスメディアとやらは、一筋縄ではいかぬ。なぜならば、連中は『正義』という名の錦の御旗を掲げておるからだ。自分たちが『世の不正を暴き、弱き民を守る』などと嘯き、まるで自分たちが神の使いであるかのように振る舞う」

玄蕃は、嘲笑うかのように鼻を鳴らした。

「それに、連中は非常に巧妙だ。真実の中に、ほんの少しだけ嘘を混ぜ込む。あるいは、真実の一部だけを切り取り、あたかもそれが全てであるかのように見せかける。そうすることで、受け取る側は、それが嘘であるとは疑いもしなくなる。そして、民衆は、自らが騙されていることにすら気づかぬまま、連中の思うがままに誘導されていく」

玄蕃の言葉に、越後屋の顔から笑みが消える。

「それは、恐ろしき術。まさに、見えざる手にて、人心を操るようなもの。そのような大層なことが、まことにあるのでございますか」

「現に、異国ではそれがまかり通っておるらしい。あの連中は、時の為政者であろうと、自分たちの意に沿わぬ者であれば、たちまちにして悪人に仕立て上げ、失脚させてしまうのだ。まるで、神の裁きとでも言うかのように」

玄蕃は、ひどく忌々しそうに語る。

「そして、その裏には、必ずと言っていいほど、利権が絡んでおる。自分たちの商売に有利な情報を流したり、あるいは、自分たちの邪魔になる者を排除したり。あるいは、特定の思想を民に植え付け、世の中を自分たちの都合の良いように変えようとする者たちもいると聞く」

「利権、でございますか」

越後屋は、途端に興味を示した。

「うむ。考えてみよ。もし、米の価格を吊り上げたいと考える者がいたとする。その者がマスメディアを使い、『米が不足している』だの『来年は凶作になる』だのといった情報を流せばどうなる。民は不安になり、こぞって米を買い占めようとするだろう。そして、米の価格は高騰し、その者は莫大な利益を得る。だが、その裏で、多くの民は飢えに苦しむことになる」

玄蕃は、冷酷な目で越後屋を見据えた。

「あるいは、特定の品物を売りたいと考える者がいたとする。その者がマスメディアを使い、『この品物がなければ、病気になるとか、恥をかく』だのといった、民の不安を煽る情報を流せばどうなる。民は、それが真実であると思い込み、その品物をこぞって買い求めるだろう。だが、実際には、その品物は何の役にも立たないばかりか、むしろ害をなすことすらあるやもしれぬ」

「お、恐ろしきことにて。しかし、お代官様。もし、我々が、マスメディアとやらを掌握することができれば、これほど便利なものもございませぬな。民衆を思いのままに操り、我々の都合の良いように世の中を変えることができる」

越後屋は、想像しただけで涎を垂らしそうな顔で、にやにやと笑った。

「馬鹿め。そう簡単にいくものではない。マスメディアとやらが厄介なのは、決して一人の者が支配できるようなものではないということだ。まるで、手のひらの砂のように、掴もうとすればするほど、指の間からこぼれ落ちていく。それどころか、下手に手を出せば、こちらが悪者に仕立て上げられ、叩き潰されることすらありうる」

玄蕃は、顔をしかめて言った。

「では、お代官様。我々のような悪党は、その『マスメディアの闇』とやらに、ただおののくことしかできないのでございますか」

越後屋は、不安そうな顔で尋ねた。

「いや。おののくばかりでは、悪代官の名が廃るというもの。我々が為すべきは、その闇の正体を見極め、どうすればその闇を逆手にとって、我々の肥やしにできるかを考えることだ」

玄蕃は、ニヤリと悪代官らしい笑みを浮かべた。

「例えば、あのマスメディアとやらが、何かを『正義』であるかのように喧伝し始めたとする。その裏には、必ずや、それを『正義』とすることで得をする者がいる。その利権を見極め、我々がその利権に食い込むことはできぬか。あるいは、その『正義』の裏に潜む『悪』を、我々が悪党として暴き出し、世間の目をそらすこともできるやもしれぬ」

「お代官様…! さすがは玄蕃様! そのような奥の手が!」

越後屋は、目を輝かせた。

「そして、最も重要なことだが、あのマスメディアとやらが、どれほどもっともらしいことを言おうとも、その情報を鵜呑みにするなかれ。常に疑ってかかり、その裏にある真の意図を探るのだ。そうすれば、連中の手玉に取られることもなく、むしろ、連中を利用して、我々が富を得ることもできるかもしれぬ」

玄蕃は、そう言って、再び扇子をあおぎ始めた。

「それにしても、この『マスメディアの闇』とやら。我々が生きるこの江戸の世では、まだ瓦版や講釈師程度で済んでおるが、もしこのまま異国の進んだ文化が流れ込んできたとしたら、我々のような悪代官にとっても、新たな試練となるやもしれぬな」

玄蕃は、遠い目をしながら呟いた。

「ははあ。しかし、お代官様がいらっしゃれば、いかなる闇も、いずれは我々の手中に収まることと存じます」

越後屋は、深々と頭を下げた。その顔には、再びいつもの調子の良い笑顔が戻っていた。

「ふん。口ばかりは達者なことよ。だが、そちの言うことも一理ある。さあ、今宵はこれくらいにしておけ。越後屋、次の手土産は、もっと気が利いたものを用意せよ。この『マスメディアの闇』を乗りこなすには、それ相応の腹ごしらえが必要となるからな」

玄蕃の言葉に、越後屋はにやつきながら深々と頭を下げた。外では相変わらず雨が降り続いている。江戸の闇は深く、そして、その闇の奥底には、まだ見ぬ新たな闇が蠢いていることを、二人は漠然と感じていた。

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