「越後屋、今日の月は殊の外(ことのほか)美しい。わしの心持ちも、どこか浮き立つようだ」
黒沼玄蕃が、庭に面した縁側から夜空を見上げ、独りごとのように呟いた。傍らに控える越後屋宗右衛門は、すかさず玄蕃の機嫌を窺うように、にこやかに応じる。
「ははあ。お代官様のお心持ちが浮き立つとは、さぞかしめでたいことにございましょう。して、今宵はどのようなお話でございましょうや」
越後屋は、玄蕃の言葉の端々に隠された真意を探ることに長けていた。玄蕃が月を愛でるなど、風流を解する柄ではないことを知り抜いている。何か企んでいるに違いない、と越後屋は身構えた。
玄蕃はゆっくりと振り返り、越後屋の顔をじっと見つめた。その眼光は鋭く、獲物を狙う鷹のようだった。
「越後屋、そちは近頃、海外からの援助とやらの話を聞いておるか?」
玄蕃の突然の問いに、越後屋は一瞬たじろいだ。海外からの援助、と聞いて、越後屋の脳裏に浮かんだのは、幕府が諸外国に体裁を繕うために行っている、いわゆる「ODA」のことであった。表向きは貧しい国々への支援と銘打っているが、その実態は、幕府の威光を示すための浪費に過ぎない、と専らの噂だった。
「は、はあ……。ODAのことでございますか。それが、何か?」
越後屋は警戒しながら答えた。玄蕃がODAの話を持ち出すとは、尋常ではない。
「うむ。そのODAとやらが、どうにも胡散臭くてな。表向きは清廉潔白を装いながら、裏では膨大な金が動いておる。越後屋、そちはこの金の匂いを嗅ぎつけぬか?」
玄蕃はニヤリと笑った。越後屋は背筋に冷たいものが走るのを感じた。玄蕃が目をつけたとなれば、ただでは済まない。
「お代官様は、そのODAに、何かお考えがおありでございますか?」
越後屋は努めて冷静に問い返した。
「無論だ。この玄蕃、座して好機を逃すほど愚かではないわ」
玄蕃は高笑いした。越後屋は額に脂汗をかき始めた。玄蕃の言う「好機」とは、つまり金儲けの機会に他ならない。
「越後屋、あのODAとやら、表向きは人道支援の名の下に行われているが、その実態は、わが国の企業が海外で儲けるための大義名分に過ぎぬ。しかも、その儲けのほとんどが、特定の者にしか流れておらぬ」
玄蕃は、越後屋の前に座り直し、声を潜めて語り始めた。
「と申しますと?」
越後屋は身を乗り出した。
「例えば、とある貧しき国に橋を架けるとする。そのための資金は、わが国からODAとして供与される。しかし、その工事を請け負うのは、わが国の企業じゃ。しかも、その企業は、どこぞの権力者と繋がっておる。つまり、ODAの資金は、結局のところ、わが国の権力者とその企業の懐に入るという仕組みよ」
玄蕃は、したり顔で説明した。越後屋は、なるほど、と膝を打った。
「なるほど、それはとんだ食い扶持でございますな」
「うむ。しかし、越後屋、この話には続きがある。その橋の建設費が、実際にかかる費用よりもはるかに高く見積もられておるとしたら、そちはどう思う?」
越後屋の目が輝いた。
「それは、まさか……差額をどこぞが掠め取っておる、と?」
「その通りじゃ。そして、その掠め取られた金の一部が、わが懐に入ってくるように仕向けるのが、わしの役目というわけよ」
玄蕃は、越後屋の顔を覗き込むようにして言った。越後屋は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「お代官様、それはまさに、世に言う『キックバック』というやつでございますな」
越後屋は興奮を隠しきれない様子で言った。
「越後屋、そちは物事をよく知っておる。このキックバックの仕組みを、そちとわしでより巧妙に仕組むことはできぬか?」
玄蕃は、越後屋の知恵を借りようとした。越後屋は腕を組み、考え込むそぶりを見せた。
「お代官様、それは一筋縄ではいきませぬ。ODAは、幕府の肝いりで行われていること。それに直接手を出すのは、いささか危険が伴いまする」
越後屋は慎重な姿勢を見せた。しかし、その表情には、金儲けの匂いを嗅ぎつけた者の特有の欲が浮かび上がっていた。
「何を言うか、越後屋。危険が伴うからこそ、儲けも大きいというもの。それに、わしはそちの才覚を見込んでおる。そちならば、この難題を乗り越えられるはずじゃ」
玄蕃は越後屋を煽るように言った。越後屋は、玄蕃の言葉に弱いことを知っていた。
「ははあ、お代官様の期待に添えるよう、この越後屋、全身全霊をかけて知恵を絞りましょう。して、具体的にはどのような筋書きでございましょう?」
越後屋は、完全にその気になった。
「越後屋、そちの商売柄、海外の事情にも詳しいであろう? 特に、途上国と呼ばれる国々に、そちのコネクションはございますかな?」
玄蕃は、越後屋の商売の広さを利用しようとした。越後屋は、にやりと笑った。
「お代官様、ご心配には及びませぬ。この越後屋、世界中に張り巡らされた情報網と、商売敵には知られぬ独自の裏ルートを持っておりまする。特に、東南の諸国には、少々深い縁がございます」
越後屋は胸を張って答えた。玄蕃は満足そうに頷いた。
「よかろう。では、まずはその東南の諸国の中から、ODAの対象となりそうな国を探るのだ。そして、その国が計画しておる大規模なインフラ整備事業、例えば港湾の拡張や、新たな道路の建設など、金のかかる事業に目をつけよ」
玄蕃は、具体的な指示を出し始めた。
「承知いたしました。しかし、お代官様、そのような大規模事業に、どうやって我らが食い込むのでございましょう?」
越後屋は疑問を呈した。
「そこが越後屋、そちの腕の見せ所よ。そちの持つ裏ルートを使って、その国の政府高官に近づくのだ。そして、その事業の入札に、わが国のある企業が参加できるように根回しをする。もちろん、その企業は、わしと繋がっておる企業じゃ」
玄蕃は、計画の核心に触れた。
「なるほど。つまり、その国の政府高官に賄賂を贈って、特定の企業に有利な入札をさせる、と?」
越後屋は確認するように言った。
「いかにも。だが、露骨ではいかん。あくまで合法的に見えるよう、巧妙に仕向けるのじゃ。例えば、その政府高官の家族を、わが国に留学させるとか、あるいは、その国に存在しないような特殊な技術を持つ企業として、わが国の企業を紹介するとか……手口はいくらでもある」
玄蕃は、様々な手口を例示した。越後屋は、その巧妙さに感心した。
「お代官様、さすがでございます。しかし、そのようにして事業を請け負ったとしても、それが我々の儲けに繋がるのは、いかがなものでございましょう?」
越後屋は、まだ疑問が残るようだった。
「越後屋、抜かるな。請け負った事業の費用を、実際にかかる費用よりも高く見積もらせるのじゃ。その差額が、わしらの懐に入る金となる」
玄蕃は、耳元で囁くように言った。
「ははあ! そして、その差額を、賄賂として贈った政府高官と山分けにする、と?」
越後屋は、全てを理解したようだった。
「その通りじゃ。もちろん、その政府高官には、わしらを裏切らぬよう、きっちりと手綱を握っておかねばならぬ。そのためには、弱みを握るのも一つの手ぞ」
玄蕃は、冷酷な表情で付け加えた。越後屋は、背筋が凍るような思いがした。
「お代官様、しかし、そのようにして莫大な金が動けば、必ずやどこかで足がつくことになりましょう。幕府の監察が入らぬとも限りませぬ」
越後屋は、リスクを指摘した。玄蕃は、ふっと鼻で笑った。
「越後屋、そちは心配性よ。ODAの金は、わが国から途上国へ流れる。その途上国での金の流れを、幕府が逐一監視するなど、不可能に近いわ。それに、幕府の役人の中にも、わしと懇意にしている者がおる。万が一、不都合な動きがあれば、事前に察知することができる」
玄蕃は、幕府内部にも手を回していることを示唆した。越後屋は、さすがは悪代官、と感嘆した。
「お代官様、恐れ入りました。しかし、もしその途上国の政府が、我々との取り決めを反故にした場合は、いかがなさるのでございましょう?」
越後屋は、さらにリスクを問い詰めた。
「越後屋、その点は抜かりなく手を打っておる。わが国と途上国との間で結ばれるODAの協定には、必ず『不可抗力条項』なるものを盛り込ませるのじゃ。万が一、事業が中断されたり、計画通りに進まなかったりしても、わが国が損失を被らないよう、巧妙に仕組む」
玄蕃は、周到な準備をしていることを語った。
「なるほど、それはまるで、どんな事態になっても、我々だけは損をしないように、保険をかけておくようなものにございますな」
越後屋は、玄蕃の用意周到さに舌を巻いた。
「その通りじゃ。そして、万が一、その国の政府が我々に不都合な動きを見せれば、ODAの援助を停止すると脅せばよい。そうすれば、途上国は喉から手が出るほど欲しいODAを失うわけにはいかぬゆえ、必ずや我々の言うことを聞くようになる」
玄蕃は、冷徹なまでの戦略を語った。越後屋は、身震いした。
「お代官様、それはまさしく、弱者の足元を見るようなやり方でございますな」
「何を言うか、越後屋。世の中とは、弱肉強食。弱き者は、強き者に従うしかない。それが世の習いぞ」
玄蕃は、悪びれる様子もなく言い放った。
「ははあ……。では、この計画が成功した場合、一体どれほどの儲けが見込めるのでございましょう?」
越後屋は、いよいよ核心に迫る問いを発した。玄蕃は、満足そうに頷いた。
「うむ。それが越後屋、そちが一番聞きたかったことだろう。ざっと見積もって、数十億、いや、数百億は堅いと見ている」
玄蕃の言葉に、越後屋の顔色が変わった。数十億、数百億という途方もない金額に、越後屋の目は完全に金の色に染まっていた。
「し、数百億でございますか!?」
越後屋は、思わず大声を出してしまった。玄蕃は、人差し指を唇に当て、静かに、と促した。
「越後屋、はしゃぐでない。この件は、そちとわし、そしてごく一部の人間しか知ってはならぬ。もし、この話が漏れるようなことがあれば、そちの身がどうなるか、分かっておるな?」
玄蕃の目は、再び獲物を狙う鷹のように鋭くなった。越後屋は、ひゅっと息を呑んだ。
「は、ははあ。この越後屋、決して口外いたしません。お代官様の御恩、生涯忘れません」
越後屋は、額を畳にこすりつけるようにして平伏した。
「うむ。よかろう。越後屋、そちの忠義、しかと見届けたぞ。では、早速明日から、その東南の国々の情報収集に取りかかれ。特に、ODAの対象となりそうな大規模プロジェクトの情報を洗い出すのだ。そして、そちの裏ルートを使って、政府高官との接触を図るのだ」
玄蕃は、具体的な行動を指示した。
「承知いたしました! この越後屋、お代官様のため、粉骨砕身(ふんこつさいしん)の努力をいたしまする」
越後屋は、満面の笑みで答えた。その顔には、金儲けへの欲望が隠しきれないほどに表れていた。
「越後屋、抜かりなく頼むぞ。この金で、わしらは世の理不尽を全てひっくり返すことができる」
玄蕃は、どこか遠い目をして呟いた。越後屋は、その言葉の意味を深く考えることなく、ただ目の前の巨額の富に心ときめかせていた。
「ははあ。お代官様のお言葉、肝に銘じまする」
越後屋は、深々と頭を下げた。
「では、今宵はこの辺りで。越後屋、くれぐれも油断召されるな」
玄蕃は、立ち上がり、庭の月をもう一度見上げた。その月は、相変わらず美しく輝いていたが、玄蕃の目には、その輝きが金貨の光のように映っていたのかもしれない。
「お代官様、今宵は誠にありがとうございました」
越後屋は、玄蕃を見送った。そして、玄蕃の姿が見えなくなると、越後屋はにやにやと口元を緩めた。
(まさか、ODAの闇にまで手が届くとは……。これは、越後屋宗右衛門、生涯最大の儲けになるかもしれぬ!)
越後屋は、高揚した気分で、金勘定に勤しむ自分の姿を思い描いていた。そして、その頭の中では、すでに途方もない金額の札束が舞い踊っていた。
このようにして、悪代官・黒沼玄蕃と越後屋宗右衛門は、ODAという公的な支援制度を私腹を肥やすための道具として利用する、極めて悪質な密談を繰り広げた。彼らの貪欲な企みは、果たして成功するのだろうか。そして、この「ODAの闇」は、いつか白日の下に晒される日が来るのだろうか。
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