夏の夜風が、黒沼玄蕃の屋敷の奥座敷にひっそりと吹き込む。障子の向こうでは虫の音が賑やかに響いているが、この部屋の空気は重く、そしてどこか甘い。上座に座るは、この地の悪代官、黒沼玄蕃。年の頃は五十路半ば、脂ぎった顔には狡猾な笑みが常に張り付いている。向かい合うは、越後屋宗右衛門。小柄で猫背だが、その目の奥には銭勘定に長けた商人の shrewdness が光る。
「越後屋、今宵の月も、わしの懐を肥やすにはうってつけの宵になりそうだのう」
玄蕃がにやつきながら言うと、越後屋は深々と頭を下げた。
「お代官様のお言葉、まことにその通りでございます。この宗右衛門、いとどお代官様のご期待に沿えるよう、粉骨砕身いたす所存にございます」
越後屋のへりくだった態度に、玄蕃は満足げに頷いた。
「うむ。して、そち、近頃巷で耳にする『いんふるえんさー』とやらは、いかなるものか、詳細を聞かせ申せ」
玄蕃の言葉に、越後屋は懐から一枚の絵図を取り出した。それは、見慣れない奇妙な絵と文字が羅列されたものだった。
「お代官様、それはまさに、この宗右衛門が今宵、お代官様にお話し申し上げたかったことにございます。『いんふるえんさー』とは、はるか遠い異国にて流行りし、人々を熱狂させ、あることないこと信じ込ませる力を持つ者たちのことでございます」
越後屋はそう言って、絵図を玄蕃の前に広げた。絵図には、華やかな着物を着た男女が描かれており、その周りには多くの人々が群がっている様子が描かれている。
「熱狂させるとは、いかがなものか。わしは民を搾り取るのが常だが、その『いんふるえんさー』とやらは、いかにして民を食い物にするのじゃ?」
玄蕃が前のめりになって尋ねた。越後屋はにやりと笑い、声を潜めた。
「お代官様、それがまことに、この『いんふるえんさー』の恐ろしくも素晴らしいところでございます。彼らは、自らが日々の暮らしぶりや、珍しい品々を人々に披露し、まるで親しい隣人のように振る舞うのでございます」
「隣人だと? くだらん。民草など、飢えさせておけば勝手に従うものよ」
玄蕃は鼻で笑ったが、越後屋は首を振った。
「それが違います、お代官様。彼らは、自らを『特別な存在』であるかのように見せかけながらも、一方で『皆様と同じ、ごく普通の人間』であるかのように振る舞うのです。その巧みな二面性が、人々を惹きつけてやまないのです」
越後屋は、絵図に描かれた一人の男を指差した。
「例えばこの男。彼は珍しい旅の土産を披露し、その品がいかに素晴らしいかを熱弁いたします。すると、それを見た人々は、『あの者が良いと言うならば、きっと良いものに違いない』と思い込み、こぞってその品を欲しがるようになるのでございます」
玄蕃は眉をひそめた。
「つまり、その者が何かを『良い』と言えば、民は何も考えずにそれを求める、と申すか?」
「左様でございます、お代官様。彼らの言葉には、不思議な説得力がございます。人々は、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、彼らの言葉に耳を傾け、彼らの真似をしたがるのです」
越後屋はさらに続けた。
「そして、その『いんふるえんさー』が『この店は素晴らしい』と褒め称えれば、人々はその店に殺到し、『この薬は病に効く』と宣伝すれば、皆がその薬を買い求めます。彼らの発する言葉一つで、人々の購買意欲を大きく左右することができるのです」
玄蕃の目に、ギラリと金銭への欲望が宿った。
「ふむ……それは面白い。つまり、そやつらを使えば、わしらが売りつけたいものを、いくらでも民に押し付けることができる、と申すことか」
「まさにその通りでございます、お代官様。これまでのように、重い税を課したり、御用金と称してむしり取るのも悪くはございませんが、それはあくまで強制にすぎません。しかし、『いんふるえんさー』を使えば、人々は自ら望んで銭を差し出すようになるのです」
越後屋は、まるで獲物を前にした狐のように目を光らせた。
「例えば、このところ不作続きで米の価格が高騰しておりますが、お代官様が隠し持っておられる古米がございますでしょう? あれを、かの『いんふるえんさー』に『これは特別に育てられた幻の米である』とでも言わせてみればどうでしょう。きっと人々は、喜んで高値で買い求めるに違いありません」
玄蕃は顎髭を撫でながら、ふむ、と唸った。
「なるほど、それは悪くない。これまでのように力尽くで奪うのではなく、民に自ら進んで銭を出させるか。まさしく、新しい時代の悪の道筋よな」
「恐悦至極にございます、お代官様」
越後屋は再び頭を下げた。
「しかし、その『いんふるえんさー』とやらは、いかにして見つけ出すのじゃ? そして、いかにして我らの意のままに動かすのだ?」
玄蕃の疑問に、越後屋はにやりと笑った。
「ご安心ください、お代官様。この宗右衛門、すでに目をつけております。巷には、日頃から人々の耳目を集めようと、奇妙な歌を歌ったり、珍しい踊りを披露したりする者がおります。彼らは、まさに『いんふるえんさー』の素質を持つ者たちでございます」
「ほう。そのような者がいるのか」
「はい。そして、彼らは共通して『名声』と『富』を欲しております。我々がそれらを与えてやれば、彼らは喜んで我らの手足となるでしょう」
越後屋は、さらに具体的に説明した。
「例えば、とある若者がおります。彼は類まれなる美声を持ち、辻で歌を披露しておりますが、まだ世に知られておりません。我々が彼を後押しし、盛大な舞台を用意してやれば、彼はたちまち民の注目を集めるでしょう」
「そのようにして名声を与え、さらに金銭を与えれば、我々の言いなりになる、と申すわけか」
玄蕃は目を細めた。
「左様でございます。そして、彼らが民に影響力を持つようになった頃合いを見計らい、我々が売りつけたいものを宣伝させるのです。例えば、この越後屋が扱う、少々質の悪い反物。通常であれば見向きもされぬような品でございますが、かの『いんふるえんさー』が『この反物こそ、最高の着物を作るのにふさわしい』とでも言えば、たちまち飛ぶように売れるでしょう」
「うむ、それは面白い。だが、その『いんふるえんさー』とやらが、我らの意に反するようなことを口走らぬよう、いかにして縛るのじゃ?」
玄蕃の鋭い問いに、越後屋はにんまりと笑った。
「そこはご心配なく、お代官様。彼らに名声と富を与え、一度甘い汁を吸わせてしまえば、もう後戻りはできません。それに、我々は彼らの弱みを握っておくこともできます。例えば、彼らが知られたくない過去や、些細な過ち。それらをちらつかせれば、彼らは決して我々に逆らうことはできないでしょう」
玄蕃は満足げに頷いた。
「なるほど。まさに、飴と鞭、というわけか。越後屋、そちはまこと、悪知恵が働くのう」
「お代官様にお褒めいただき、恐悦至極にございます」
越後屋は、さらに踏み込んだ提案をした。
「それに、お代官様。この『いんふるえんさー』の仕組みを使えば、我々の悪事の評判を覆すことも可能にございます」
「ほう? いかにして?」
玄蕃は興味津々といった様子で尋ねた。
「例えば、お代官様が民から搾取しているという噂が流れたといたします。そのような時、『いんふるえんさー』に『お代官様は、陰ながら民のために尽力しておられる』とか、『お代官様の元、この村はこれほどまでに豊かになった』などと、あたかも事実であるかのように語らせるのです」
「民はそれを信じる、と申すのか?」
「はい、お代官様。彼らの言葉は、まるで真実であるかのように響きます。人々は、自分が見聞きしたことよりも、『いんふるえんさー』が語る言葉を信じ込む傾向があるのです。そうすれば、お代官様の評判は、たちまち好転いたしましょう」
玄蕃は手を叩いて笑った。
「おお、それは素晴らしい! 悪事を働きながら、名声も手に入れられるとは、まさに一石二鳥ではないか! 越後屋、そちはまこと、わしの良き片腕よ」
「恐れ入ります、お代官様」
越後屋は深々と頭を下げた。
「して、その『いんふるえんさー』とやらを使い、手始めに何を企む?」
玄蕃の問いに、越後屋は待ってましたとばかりに、声を低くして言った。
「まずは、先ほど申し上げました古米の件にございます。あれを『幻の米』として売りさばき、一儲けいたしましょう。そして次に、この越後屋が新しく仕入れた、効くか効かないか分からぬ『万能薬』にございます。これを『いんふるえんさー』に効能を偽って宣伝させれば、病に苦しむ愚かな民が、こぞって買い求めるに違いありません」
玄蕃の顔には、この上ない満足の笑みが浮かんでいた。
「うむ、良いではないか。越後屋、抜かりなく事を運べ。わしは、そちの働きに期待しておるぞ」
「お任せください、お代官様。この宗右衛門、お代官様のために、とことん悪事を働かせてもらう所存にございます」
闇夜に響く二人の悪人の笑い声は、虫の音に紛れて、静かに消えていった。新しい時代にも、彼らの悪知恵は、形を変えて生き残るであろうことを予感させる、不吉な夜だった。彼らの企みは、デジタルという新しい媒体を得て、さらに巧妙に、そして広範囲に人々を騙し、私腹を肥やすための新たな武器となるだろう。インフルエンサーという名の、新たな金のなる木を前に、玄蕃と越後屋の欲望は天井知らずに膨らんでいくのだった。
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