雪のちらつく肌寒い夜、江戸城下からほど近い黒沼玄蕃の屋敷では、煌々と灯りがともっていた。質素な見た目とは裏腹に、その奥座敷は豪奢な調度品で飾られ、いかにも悪の臭いが充満している。上座には、ふくよかな顔に油の浮いた、この地の顔役である悪代官・黒沼玄蕃が不敵な笑みを浮かべて座している。向かい合うのは、いかにも人の良さそうな商人顔でありながら、その実、江戸中の裏金に精通する守銭奴、越後屋宗右衛門だ。
「越後屋、今宵もよう参った」
玄蕃が手ずから茶を淹れながら言った。湯呑からは、上等な宇治新茶の香りが立ち上る。越後屋は恐縮しきった様子で平伏する。
「ははあ、お代官様には、いつもながらのご配慮、かたじけなく存じまする」
「堅苦しい挨拶はよせ。今日の茶は、先日そなたが献上してくれた茶葉じゃ。なかなかどうして、香りが良い」
玄蕃はにやりと笑った。越後屋が献上した茶葉は、表向きは将軍家御用達の最高級品だが、裏では玄蕃が秘密裏に蓄財する金銀の一部を越後屋が洗浄し、形を変えて献上したものだ。一種のマネーロンダリングである。
「もったいのうございます。お代官様にお気に召していただき、越後屋冥利に尽きまする」
越後屋は、内心ほくそ笑んでいた。この茶葉一本で、どれほどの利益が転がり込むか。玄蕃の懐具合が潤えば潤うほど、越後屋の懐もまた潤うのだ。
「それで、越後屋。以前そなたが申しておった、奇妙な商いの話じゃが…」
玄蕃が本題に入った。越後屋は背筋を伸ばし、真面目な顔で応じる。
「はっ、お代官様にご説明申し上げました、例の地下アイドルでございますな」
玄蕃は顎髭を撫でながら、興味深そうに目を細めた。
「うむ。なんでも、若い娘たちが歌や踊りを披露し、それを目当てに銭を払う愚か者が大勢いると申したな。わしには到底理解できぬ商売だが、そなたがこれほど熱心に語るゆえ、なにか銭の匂いがするのだろうと睨んでおった」
「まさしくでございます、お代官様!当初は越後屋も半信半疑でございましたが、このところ、江戸市中に妙な流行が起きておりましてな。若者を中心に、特定の場所で歌い踊る娘たちに熱狂する者どもが後を絶たないのです」
越後屋は身を乗り出した。
「お代官様もご存知の通り、今の世は平和が続きすぎております。戦乱の世であれば、皆、明日をも知れぬ命ゆえ、刹那の享楽にふけることもございましょうが、この泰平の世では、若者どもは刺激に飢えております。そこで目をつけたのが、あの地下アイドルでございます」
玄蕃は湯呑を傾け、静かに越後屋の話に耳を傾ける。
「つまり、その娘たちを囲い込み、客から銭を巻き上げる算段か?」
「恐れながら、左様でございます。ただし、そこはただの女郎屋とは一線を画します。客どもは、娘たちの歌や踊りを見るだけでなく、自ら銭を投じることで、その娘を応援し、贔屓するという参加型の娯楽として捉えているようでございます」
「参加型、だと?」
玄蕃の目が光った。越後屋は待ってましたとばかりに続ける。
「はっ。客どもは、娘たちに推しという名の偶像を見出し、その偶像を自らの手で大きく育て上げようと躍起になるのでございます。具体的には、娘たちが披露する舞台の観覧料に加え、特別な品物、例えば娘たちの姿を写した絵や、声が録音された木札、はたまた娘たちが身につけた着物の切れ端など、実に馬鹿馬鹿しい品々に高値をつけても、飛ぶように売れるのでございます」
「ほう、それは面白い。つまり、銭を払えば払うほど、その娘を独占できるような錯覚に陥るわけか」
「お代官様、さすがでございます!まさにその通り。加えて、娘たちには握手会と称して客と直接言葉を交わす機会を与えたり、一緒に写真を撮らせたりと、客との距離の近さを演出するのです。これが、客の射幸心を煽り、さらなる散財を促す仕掛けとなるのでございます」
玄蕃はにやりと笑った。
「なるほど。それは面白い。だが、肝心の娘どもは、どうやって集めるのだ?そして、その者たちを使い物になるよう仕込む手間もかかるであろう」
「ご安心ください、お代官様。巷には、芸事に秀でながらも日の目を見ない貧しい娘がいくらでもおります。そういった者どもに、わずかな日銭と、いずれは表舞台に立てるという甘言を囁けば、喜んで飛びついて参ります。そして、訓練は越後屋が抱える手練れの師範に任せますゆえ、ご心配には及びません」
越後屋は自信満々に言い切った。玄蕃はしばらく腕を組み、考え込む素振りを見せた。
「しかし、越後屋。そのような商売、公には認められておるまい。下手をすれば、奉行所の手が入る可能性もある」
「お代官様、そこはご安心ください。越後屋が既に手を打っております。奉行所の目付け役には、手厚い付け届けをしてございますゆえ、少々のことであれば目溢しをしてくれましょう。それに、これはあくまで庶民の娯楽として、ひっそりと展開する所存でございます。表向きは、健全な芸事の場とでも言い繕えばよろしい」
越後屋は不敵な笑みを浮かべた。玄蕃もまた、その顔に満足げな笑みを浮かべる。
「ふむ。それでは、具体的にはどのように進めるのだ?」
「まるで秘密結社のようではないか」
玄蕃は愉快そうに笑った。
「世の者どもは、秘密という言葉に弱いものでございます。そして、初めて訪れる客には、初回限定として、特別に娘たちとの短い対面時間を設けたり、ささやかな土産を渡したりして、囲い込みを図ります。一旦、その魔窟に足を踏み入れた者どもは、必ずやその魅力の虜となり、越後屋の思惑通りに銭を落とし続けることでしょう」
「そのようにうまくいくものか?」
玄蕃は疑いの目を向けた。
「ご心配には及びません、お代官様。人間というものは、一度欲の虜となると、なかなか抜け出せないものでございます。特に、手の届きそうで届かない、清らかなる存在に憧れを抱く者どもは、際限なく銭を使い込むものです。そして、越後屋はそういった者どもの心理を巧みに操り、さらなる欲を掻き立てる仕掛けを用意しております」
「仕掛け、とは?」
「はっ。例えば、娘たちに人気投票を行わせ、順位をつけさせます。順位の高い娘には、より良い衣装や、より大きな舞台での披露の機会を与えると喧伝するのです。すると、客どもは自分の推しを上位に押し上げようと、必死に銭を投じることでしょう。また、娘たちには定期的に特別な衣装を身につけさせたり、新たな楽曲を覚えさせたりと、常に目新しいものを提供し、飽きさせぬ工夫も凝らします」
玄蕃は膝を叩いた。
「なるほど、それは面白い。つまり、客の競争心を煽り、より多くの銭を使わせるというわけか。まるで競り市ではないか」
「左様でございます、お代官様。そして、我々はその銭の中から、わずかな手間賃をいただくという寸法でございます。娘たちには、夢を見させておけばよいのです。いずれ、本当に日の目を見る者も現れるかもしれませんが、それはごく一部。ほとんどの者は、我々の手のひらで踊らされていることにも気づかぬまま、銭を貢ぎ続けることでしょう」
越後屋の言葉に、玄蕃は満足げに頷いた。
「ふむ。越後屋、そなたの悪知恵には毎度感心させられる。その話、乗った。ついては、その事業の立ち上げ費用として、わしが壱万両を出資しよう。その代わり、利益の半分はわしに入れるのだぞ」
越後屋は内心飛び上がらんばかりに喜んだ。壱万両。これは大金である。しかし、この事業が成功すれば、その何倍もの銭が転がり込むことは明白だ。
「ははあ、お代官様!お代官様のご決断、誠にありがたく存じます!越後屋、この黒沼玄蕃様のために、全身全霊をかけてこの事業を成功させてみせまする!」
越後屋は深々と頭を下げた。
「うむ。ただし、越後屋。くれぐれも足元を掬われることのないよう、抜かりなく頼むぞ。特に、娘どもには甘言を弄し、決して反抗させぬよう、しっかりと手綱を握るのだ」
「お任せください、お代官様。越後屋は、娘どもの心の隙につけこむ術には長けておりますゆえ。彼女たちは、夢を追うあまり、我々の手のひらで踊らされていることにも気づかぬでしょう」
玄蕃は満足げに頷いた。
「では、越後屋。今宵はこのあたりで良かろう。早々に準備に取り掛かれ。この地下アイドルとやら、わしにも大いに期待させてくれる」
「かしこまりました、お代官様。それでは、越後屋はこれにて失礼いたします」
越後屋は満面の笑みを浮かべ、闇夜に消えていった。玄蕃は一人残り、残された茶をゆっくりと飲み干す。彼の脳裏には、銭の山がうずたかく積まれる光景が鮮やかに浮かんでいた。地下アイドル。奇妙な響きではあるが、これほど美味い儲け話もそうそうあるまい。
「クックックッ…江戸の若者どもよ、せいぜいその馬鹿な夢のために、わしに銭を貢ぐがいいわ」
玄蕃の低い笑い声が、静かに夜の屋敷に響き渡った。
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