しとしとと五月雨が降り続く、夏の宵。黒沼玄蕃の屋敷の奥座敷では、分厚い障子の向こうで雨音が湿度を含んで響いていた。囲炉裏には備長炭が赤々と燃え、熱気を放っているものの、どこか陰鬱な空気が漂う。そんな中、向かい合って座る二つの人影があった。一人はこの地の悪代官として悪名を馳せる黒沼玄蕃。もう一人は、玄蕃に取り入り、私腹を肥やすことに余念がない越後屋宗右衛門である。
「越後屋、今宵もよう参った」
玄蕃がにやりと笑う。その顔には脂が浮き、見る者を不快にさせる。越後屋は深々と頭を下げた。
「ははあ、お代官様には、ご機嫌麗しゅうございます」
越後屋の言葉遣いは丁寧だが、その目はぎらぎらと欲に塗れている。玄蕃は扇子をゆっくりと開き、顔の周りで仰ぐ。
「うむ。さて、そちが持ち込んだ『移動してポイ活』とやら、詳しく聞かせてもらおうか」
玄蕃は興味津々といった様子で身を乗り出す。越後屋は待ってましたとばかりに、膝をさらに進めた。
「お代官様。これはまことに、時代が求めておりまする画期的な仕組みにございます。巷では、歩けば歩くほど、あるいは特定の場所を訪れるごとに点(ポイント)が貯まる、などという仕組みが流行しておりまする」
「ふむ、点か。銭ではないのか?」
玄蕃は眉をひそめる。金以外のものが儲けになるという発想が、にわかには理解できないようだった。
「はい。さよう、最初は点でございます。しかしながら、その点は銭と交換できたり、様々な品と引き換えにできたりと、まことに便利な代物でございます。そして、この仕組みを応用し、さらなる儲けを生み出そうというのが、わたくしが今宵お代官様にご提案申し上げまする『移動してポイ活の沼』にございます」
越後屋は得意げに胸を張る。玄蕃は顎髭を撫でながら、思案顔になった。
「沼、とな。また随分と物騒な名を付けたものよな」
「へへへ、お代官様。沼と申しますのは、一度足を踏み入れたら最後、なかなか抜け出せなくなるという意味合いでございます。つまり、多くの民を巻き込み、そこから莫大な銭を吸い上げる仕掛けにございます」
越後屋の言葉に、玄蕃の目が鈍く光った。
「なるほど、聞けば聞くほど面白そうだ。で、具体的にはどうするのだ?」
「ははあ。まずは、お代官様のお力添えをもちまして、この地に『健康増進奨励事業』と銘打ち、新たな制度を導入するのです」
「健康増進、とな?また随分と清廉な名ではないか。我々には似合わぬ」
玄蕃は面白くなさそうに口を尖らせた。
「いいえ、お代官様。それが肝要なのです。民は、お上からの施しと聞けば、疑うことなく食いつきまする。この事業は、民の健康増進を目的とし、特定の場所への移動や、日々の歩行数を記録することで、点を与えるという触れ込みでございます」
「ほう。しかし、それだけでは我らの儲けにはならぬだろう?」
「もちろんでございます。そこで、でございますが、この点を得るための『移動記録装置』なるものを民に販売いたします」
「移動記録装置?」
「はい。竹筒に簡単な細工を施し、歩数や移動した場所を記録できるように見せかける代物でございます。実際は、中の仕掛けなどなくとも、我々が勝手に記録したかのように見せかけるだけのこと。一台につき、かなりの高値で売りつけられます」
玄蕃はニヤリと笑った。
「それは良いな。しかし、民に買わせるには、それなりの理由が必要だろう」
「もちろんでございます。この装置を持つ者のみが、健康増進奨励事業の恩恵にあずかれると喧伝いたします。さらに、この装置には『特別な御利益がある』と吹聴すれば、信心深い民はこぞって買い求めましょう」
「なるほど、信仰心か。それにしても、点を与える場所はどのようにするのだ?」
「ははあ。お代官様の管轄内に、いくつか『健康増進の聖地』と称する場所を設けます。例えば、寂れた社や、人通りの少ない寺の裏山などでございます。これらの場所に立ち寄るごとに、より多くの点が得られると触れ込むのです」
「ふむ、それは面白い。だが、そんな場所にどれほどの民が行くというのだ?」
「ご心配には及びませぬ、お代官様。民は銭に目がくらむ生き物。特に、得られる点が多いとなれば、どんな僻地であろうと喜んで足を運びましょう。そして、その『聖地』の管理を、わたくし越後屋にお任せいただければ、さらなる儲けの道が開けます」
「越後屋に、とな?」
「はい。聖地への道中に、わたくしが経営いたしまする茶屋や土産物屋を設けるのです。喉が渇けば茶を飲み、腹が減れば団子を食し、記念にと無駄な土産を買い求めまする。点を得るために、わざわざ遠くまで足を運んだのですから、民は多少の出費も厭いません」
越後屋の言葉に、玄蕃は手を叩いて笑った。
「はっはっは!それは見事な仕掛けよな、越後屋!そちの商才にはいつもながら感心させられるわ!」
「お代官様、もったいないお言葉でございます」
越後屋はにやにやと笑みを浮かべる。
「しかし、そち、それで終わりではないのだろう?この『沼』の真髄はそこではないと見たが」
玄蕃は越後屋の企みをすべて見透かしているかのように問いかけた。越後屋は背筋を伸ばし、真面目な顔つきになる。
「お代官様、さすがでございます。その通りでございます。この『移動してポイ活の沼』の真の狙いは、まさにこれからにございます」
越後屋は声を潜めた。
「民が貯めた点。この点は、最終的に『越後屋印の御用達品』としか交換できないようにするのです」
「何だと?」
玄蕃は驚きの声を上げた。
「はい。つまり、民は苦労して点を貯めても、その点は結局、わたくしども越後屋の店でしか使えない。しかも、品物の値段は、通常の相場よりもかなり高めに設定しておくのです。こうすれば、民は貯めた点を使わずに抱え続けるか、あるいは、高値でも我らの品を買わざるを得なくなる。これこそが、民から金を吸い上げる真の仕組みにございます」
玄蕃は感嘆の息を漏らした。
「なるほど!それはまさに、沼よな!一度嵌まれば、抜け出せぬ!貯めた点が足枷となり、我らの店で銭を使わせる。見事としか言いようがないわ!」
「ははあ。さらに、でございますが、この点には『有効期限』を設けるのです」
「有効期限、とな?」
「はい。期限を過ぎれば、苦労して貯めた点も紙くず同然。民は期限が切れる前に、必死になってわたくしどもの店に押し寄せることになりましょう。これにより、売上は天井知らずに伸びることにございます」
玄蕃は椅子から立ち上がり、部屋の中を興奮した様子で歩き回った。
「越後屋、そち、とんでもない悪知恵を働かせおったな!しかし、それが良い!まさに、わしの求めていたものではないか!」
「お代官様のお眼鏡にかなうのであれば、これに勝る喜びはございません」
越後屋は深々と頭を下げた。
「うむ。しかし、まだ抜け道があるのではないか?民が点に飽きてしまえば、それまでではないか?」
玄蕃は冷静さを取り戻し、問いかけた。越後屋は再び不敵な笑みを浮かべた。
「ご心配には及びませぬ。民をこの沼に繋ぎ止めるための仕掛けも、すでに用意してございます」
「ほう、聞かせろ」
「はい。定期的に『高得点獲得イベント』を開催するのです。例えば、『特定の日に特定の聖地に行けば、点が倍増!』と告知する。あるいは、『期間限定で、希少な御用達品と交換できる特別な点が出現!』などと煽るのです」
「なるほど!射幸心を煽るわけか!」
玄蕃は膝を打った。
「さよう。民は常に、より多くの点を得ようと躍起になるでしょう。そして、このイベントには、参加料と称して少額の銭を徴収するのです。点を得るために銭を払う。これこそ、民の愚かさにつけ込んだ、我らの巧妙な罠にございます」
越後屋は扇子で口元を隠し、低く笑った。その笑い声は、外の雨音にかき消されながらも、悪どい響きを持っていた。
「さらに、お代官様。この事業には『寄付』の仕組みも導入いたします」
「寄付?一体何に寄付させるのだ?」
「ははあ。この健康増進奨励事業は、お代官様のお慈悲により、民の健康と繁栄を願って行われるもの、と喧伝いたします。そして、この事業の運営費用を賄うため、民に任意で寄付を募るのです。もちろん、寄付をしてくれた者には、感謝の印として少額の点を与える。そうすれば、民は喜んで銭を差し出すでしょう」
「寄付までか!越後屋、そち、どこまで欲深いのだ!」
玄蕃は呆れたような、しかしどこか満足げな表情で言った。
「お代官様には、そのようにおっしゃっていただけると光栄でございます」
越後屋は平然と答える。
「そして、この事業に批判的な者、あるいは参加しようとしない者には、それとなく圧力をかけるのです。『お上の方針に逆らうのか』と。あるいは、『非協力的であると、村八分にされるぞ』などと、陰で囁けばよろしい。民は噂に弱いものでございますから」
玄蕃は腕を組み、唸るように言った。
「うむ、完璧よな。健康という大義名分のもと、民から金を巻き上げ、しかも逆らう者には圧力をかける。これぞ、悪代官と悪徳商人の真骨頂ではないか!」
「お代官様、恐悦至極にございます」
越後屋は深々と頭を下げた。
「しかし、越後屋。これほど大規模な仕掛けとなると、我々だけでは手が回らぬこともあるだろう。役人どもを使えば、口を滑らせる者も出てこようぞ」
玄蕃の懸念に、越後屋は顔色一つ変えなかった。
「ご心配には及びませぬ。すでに、わたくしどもの配下に、口の固い者を何人か集めてございます。彼らに高額な報酬を渡し、この事業の裏方を担わせるのです。彼らもまた、この沼から甘い汁を吸いたい者たち。決して裏切ることはございません」
「抜かりがないな、越後屋」
玄蕃は満足げに頷いた。
「この『移動してポイ活の沼』。まさに、現代社会で言うところの、ロケーションベースのマーケティングとポイントプログラムの悪用、それに人間の行動心理を巧みに操る詐欺的商法の合わせ技にございます。民は、健康になれる、点が得られる、という甘い言葉に誘われ、自ら喜んでこの沼に飛び込むでしょう。そして、一度飛び込めば、抜け出すことは容易ではございません」
越後屋は口角を吊り上げ、冷酷な笑みを浮かべた。
「玄蕃様、この沼は、まさに金のなる木。我らはこの沼から、末代まで銭を吸い上げ続けることができるでしょう」
玄蕃は再び扇子を広げ、ゆっくりと仰ぎ始めた。外の雨音はいつの間にか止み、代わりに虫の鳴き声が聞こえてくる。
「うむ。越後屋、そちの献策、まことに天晴れである。よし、この『移動してポイ活の沼』、早速取り掛かるとしよう。これでこの地の銭は、すべて我らの懐に入る。はっはっは!」
玄蕃の高笑いが、静まり返った屋敷の奥座敷に響き渡った。越後屋もまた、満面の笑みでそれに加わる。二人の目には、すでに金色の銭の山が見えているようだった。
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