夏の盛りを過ぎ、夜風がかすかに涼しさを運び始めた頃、月明かりも届かぬ黒沼玄蕃の屋敷の奥座敷では、密やかな話し合いが始まっていた。燭台の炎が微かに揺れる中、上座には精悍な顔つきに薄笑いを浮かべる黒沼玄蕃が座し、その向かいには、いかにも人の良さそうな顔をしながらも、目の奥に鋭い光を宿す越後屋宗右衛門が平伏していた。
「越後屋、よう来たな」
玄蕃の声は低く、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。
「ははあ、お代官様には、ご機嫌麗しゅう。今宵も格別の酒をご用意させていただきました」
宗右衛門はそう言いながら、手土産として持参した最高級の銘酒を玄蕃の前にそっと差し出した。玄蕃はちらりとそれを見ると、満足げに頷いた。
「うむ、そのほうの心遣いはいつもながら見事よ。しかし、今宵は酒を酌み交わすばかりが目的ではない。他ならぬ、金の話よ」
玄蕃の言葉に、宗右衛門の背筋がピンと伸びた。金の話、しかも玄蕃が直接持ち出すとなれば、並々ならぬ儲け話に違いない。
「お代官様の仰せとあらば、越後屋、肝に銘じさせていただきます」
「うむ。さて、越後屋。そちは『錬金術』というものを知っておるか?」
玄蕃は盃を傾けながら、唐突に問いかけた。宗右衛門は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
「錬金術でございますか? はて、聞き覚えはございますが、まさかお代官様がそのような絵空事を…」
「絵空事だと? 愚か者め」
玄蕃は盃を卓に置き、宗右衛門を睨みつけた。その眼光は、まるで獲物を狙う猛禽のようであった。
「この玄蕃、無益な話を持ち出すとでも思われたか? よく聞け、越後屋。近頃、わしの耳に、ある噂が届いておる。異国の地には、卑しい金属を黄金に変える術があるという。まさしく『錬金術』と呼ばれるものだ」
宗右衛門は、その言葉に思わず息をのんだ。卑しい金属を黄金に――もしそれが真実ならば、想像を絶する富を築くことができる。しかし、にわかには信じがたかった。
「お代官様、それはまことにございますでしょうか。もしそれが叶うのであれば、この越後屋、喜んでご協力させていただきますが、いささか信じ難く…」
「当然よ。しかし、だからこそ面白いのだ」
玄蕃は不敵な笑みを浮かべた。
「この玄蕃、これまで幾多の危ない橋を渡ってきた。しかし、いずれも成功を収めてきたのは、わしが常に可能性を追求し、疑わしきものにも手を伸ばしてきたからに他ならぬ。それに、もしこれが絵空事であったとしても、そこから金を生み出す術はいくらでもある」
宗右衛門は玄蕃の言葉にハッとさせられた。玄蕃は単に錬金術の真偽を問うているのではない。その「噂」そのものを使って、新たな利権を生み出そうとしているのだ。
「お代官様、まさかその錬金術の噂を利用して、何かを企んでおられるのでございますか?」
「その通りよ、越後屋。そちは聡い。まさにそれだ」
玄蕃は満足げに頷いた。
「わしはな、この錬金術の噂を、京や江戸の富裕な商人たちに流そうと考えている。彼らは常に、新たな儲け話に飢えておる。特に、一攫千金を夢見る連中ならば、この錬金術の話に飛びつかぬはずがない」
宗右衛門は玄蕃の真意を理解し始めた。錬金術が実際に可能かどうかは二の次。重要なのは、その「夢」を売ることなのだ。
「なるほど、お代官様。では、その富裕な商人たちから資金を集め、錬金術の研究と称して、その資金を…」
「ふふふ、その先は言わずともわかるだろう。表向きは研究資金の名目で、裏では我らが懐を肥やすのだ。どうだ、越後屋。この話、そちには魅力的ではないか?」
玄蕃はニヤリと笑った。宗右衛門は額の汗を拭った。とんでもない話に巻き込まれようとしているが、同時に、これまでにないほどの大金が転がり込んでくる予感に、全身の血が沸き立つのを感じた。
「お代官様のお考え、まことに恐れ入ります。この越後屋、喜んでお手伝いさせていただきます。しかし、どのような名目で資金を集めればよろしいでしょうか」
「うむ、そこが肝心だ。まずは、腕利きの学者や術者を雇い、表向きは本格的な研究を始める体裁を整える。もちろん、彼らには本物の錬金術などできぬ。ただ、それらしく見せる演技ができればよい」
「なるほど。では、いかにも高名な学者を装わせ、彼らに錬金術の可能性を説かせると。そして、その研究の成果が目前に迫っていると触れ回れば、焦った商人たちは我先に資金を投じるでしょう」
宗右衛門の言葉に、玄蕃は満足げに頷いた。
「その通りよ、越後屋。そして、その研究の過程で、いかにも『失敗』を装い、さらなる資金を要求する。あるいは、『あと一歩で成功する』と煽り、追加投資を引き出すのだ」
「それは見事な手腕でございます。しかし、いずれは真実が露見するのではございませんか?」
宗右衛門の問いに、玄蕃は鼻で笑った。
「馬鹿者め。真実が露見する前に、我らは十分に稼ぎ、姿をくらます。あるいは、また新たな『夢』を彼らに提供すればよい。人間というものは、いつの時代も、楽して大金を手に入れる夢を見るものだ」
玄蕃の言葉は、宗右衛門の心に深く響いた。確かに、これまでも様々な詐欺まがいの商売を手掛けてきたが、これほど壮大な計画は初めてだった。
「お代官様のお見識、まことに恐れ入ります。しかし、そのような大金を動かすとなると、幕府の目も厳しくなるのではと…」
宗右衛門の懸念に、玄蕃は不敵な笑みを浮かべた。
「安心せよ、越後屋。そのためのわしだ。この黒沼玄蕃、幕府の要人にも顔が利く。いざとなれば、彼らを抱き込み、この計画を大義名分のあるものに仕立て上げることも可能だ」
「な、なるほど…」
宗右衛門は、玄蕃の恐るべき人脈と策謀に震えた。これならば、確かに大金を掴むことができるかもしれない。
「そしてな、越後屋。今回の計画には、もう一つ重要な目的がある」
玄蕃は声を低くし、宗右衛門に顔を近づけた。
「近頃、わしの地位を脅かそうとする輩が少なからずおる。彼らはわしの財力に嫉妬し、些細なことで難癖をつけてくる。今回の錬金術の話は、彼らの注意をそらし、同時に彼らをも巻き込んで資金を吸い上げるための罠にもなるのだ」
宗右衛門は、玄蕃の冷徹な思考に感服した。この男は、単なる金儲けだけでなく、自らの地位を守り、敵対者を排除するためにも、この計画を利用しようとしているのだ。
「お代官様の周到なるご計画、まことに恐れ入ります。この越後屋、全身全霊をかけてお支えさせていただきます」
宗右衛門は深く頭を下げた。
「うむ。よかろう。では、具体的な段取りだが…」
玄蕃は指を一本立てた。
「まず、そちには、京や江戸で人脈のある商人を探させたい。特に、金儲けに目がなく、かつ少々世間知らずな富裕な者どもがよい。彼らには、錬金術の秘密を、いかにも『特別に』打ち明けるのだ」
「かしこまりました。そのような輩は、私の周りにも何人かおります。彼らには、この錬金術が幕府の機密に関わるものであり、限られた者しか知ることができないとでも吹き込みましょう」
「うむ、それでよい。そして、もう一つ。錬金術の『成果』を見せるための偽の施設を用意せねばならぬ。もっともらしく見えるよう、それなりの費用をかける必要があるが、それは将来の儲けに比べれば安いものだ」
「承知いたしました。さっそく、人里離れた場所に、それらしい場所を見繕い、準備に取り掛かります。実験器具なども、それらしく見えるものを集めて参りましょう」
宗右衛門の言葉に、玄蕃は満足げに頷いた。
「うむ。そして、最も重要なことだが、その偽の実験で、いかにも『金』が生成されたかのように見せる演出を考えるのだ。例えば、事前に仕込んでおいた金の粉を、怪しげな液体に混ぜて見せるなど…」
「なるほど! その手がありましたか。見た目の派手な仕掛けを用意すれば、信じやすい者どもはコロリと騙されるでしょう」
宗右衛門は、すっかりその気になっていた。錬金術が真実かどうかは問題ではない。いかに巧妙に騙し、金を巻き上げるか。それが重要だった。
「そして、この計画が軌道に乗れば、次に考えるべきは、その金をいかにして洗浄し、我々のものとするかだ。表向きは、錬金術で生み出された金を、世の中に流通させるわけにはいかぬからな」
「ごもっともでございます。表向きは、その金を『寄付』という形で寺社に収めるという名目にすれば、幕府の追求もかわしやすいかと。その上で、寺社との間に秘密の取引を交わし、金を我らの懐に戻すという手もございます」
宗右衛門の提案に、玄蕃はニヤリと笑った。
「ほう、なかなかやるではないか、越後屋。そのほうの悪知恵は、わしと互角よ」
「ははあ、お代官様に褒めていただき、光栄の至りにございます」
宗右衛門は恐縮しながらも、内心ではほくそ笑んでいた。玄蕃の計画に乗ることで、自分もまた、かつてないほどの巨万の富を得られる。
「しかしな、越後屋。この計画は、決して誰にも漏らしてはならぬ。たとえ家族であろうと、口外すれば、そちの首は飛ぶと思え」
玄蕃の目は、冗談めかしているようでいて、その奥には本気の殺意が宿っていた。宗右衛門はごくりと唾を飲み込んだ。
「滅相もございません、お代官様。この越後屋、決して口を滑らせるような真似はいたしません。何卒、ご安心ください」
「うむ。よかろう。では、さっそく準備に取り掛かれ。この錬金術の夢、我らが手で現実のものとしてみせるのだ」
玄蕃は盃に残った酒を一気に飲み干し、不敵な笑みを浮かべた。その顔は、まるで獲物を前にした獣のように、ギラギラと輝いていた。宗右衛門もまた、その輝きに魅せられるように、深く頭を下げた。この夜、二人の悪人の間で交わされた密約は、やがて多くの人々の運命を狂わせ、この世に新たな闇を振りまくことになるのだった。
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