夜のとばりが京の都を覆い、祇園の一角にある「京屋」の奥座敷には、怪しげな光が揺らめいていた。上座にふんぞり返るのは、悪代官としてその名を轟かす黒沼玄蕃。その向かいには、いかにも人の良さそうな顔をしながらも、悪辣な商売で私腹を肥やす越後屋宗右衛門が座している。二人の間には、上等な酒と肴が並べられているが、その目は互いの腹を探り合うかのように鋭かった。
「越後屋、今宵もよう来たな。して、例の件、首尾はいかがである?」
玄蕃がにやりと笑いながら問うと、越後屋は恐縮したように頭を下げた。
「お代官様には及びもつかぬこと。おかげさまで、抜かりなく準備を進めております。」
「うむ、そちのことゆえ、抜かりはないであろう。だがな、油断は禁物ぞ。なにせ、今回の儲けは、これまでとは桁が違うからのう。」
玄蕃は盃を傾け、満足そうに喉を鳴らした。越後屋は、すかさず玄蕃の盃に酒を注ぐ。
「お代官様の御慧眼には、いつもながら感服いたします。まさか、『江戸ペイ』なるものが、これほどまでに庶民の間に浸透するとは…。」
「ふん、世の中には新しいもの好きが多すぎるのだ。だが、それもよい。わしらが次に打つ手のためにはな。」
玄蕃は不敵な笑みを浮かべた。越後屋は、その笑みの意味を理解しているかのように、相槌を打つ。
「さよう、我々はその『江戸ペイ』の流行に乗じて、さらなる銭儲けを企むわけでございますな。」
「その通りじゃ、越後屋。世間では『江戸ペイ』とやらがもてはやされておるが、あれとて所詮は流行り廃り。それに、いつまでもあのような便利なものが、ただで使えると思うてはおるまい。」
玄蕃は声をひそめ、身を乗り出した。越後屋もまた、それに合わせて姿勢を正す。
「はい、お代官様。しかし、我々が企むは、その『江戸ペイ』の二番煎じ。いかにして、庶民に受け入れさせるかが肝要かと。」
「心配無用じゃ、越後屋。そちの店で売る品々に、その新しい銭の仕組みを適用すれば、庶民は喜んで飛びつこう。」
玄蕃は、越後屋の顔をじっと見つめた。越後屋は、玄蕃の意図を察し、にやりと笑った。
「なるほど、お代官様。それはまことに妙案でございますな。我らが扱う品は、どれもこれも庶民にとっては喉から手が出るほど欲しいものばかり。そこに、新しい銭の仕組みを導入すれば、庶民はこぞってそれを求めるでしょう。」
「その通りじゃ。それに、この新しい銭の仕組みには、とある仕掛けを施す。それゆえに、わしらはさらなる儲けを得ることができるのじゃ。」
玄蕃は、盃を手に取り、一気に酒を飲み干した。越後屋は、玄蕃の盃に酒を注ぎながら、その仕掛けについて尋ねた。
「お代官様、その仕掛けと申しますのは…?」
「ふふふ…越後屋、そちもよほど知りたいようじゃな。では、教えて進ぜよう。この新しい銭の仕組みはな、表向きは『江戸ペイ』と同じように、買い物をすればするほど銭が戻ってくる仕組みにしておく。」
越後屋は、訝しげな顔をした。
「しかしお代官様、それでは我々の儲けが減ってしまうのでは?」
「馬鹿め! 戻ってくる銭は、あくまで見せかけじゃ。肝心なのは、その戻ってくる銭を、わしらが発行する特殊な手形にすることで、銭を直接渡さぬようにすることじゃ。」
玄蕃は声を荒げた。越後屋は、玄蕃の言葉を反芻するように、目を閉じて考え込んだ。
「なるほど…! つまり、庶民は『戻り銭』を得たと喜ぶでしょうが、その実、我々の発行する手形しか得られず、その手形を使えるのは、我々の指定する店だけ…。」
「その通りじゃ、越後屋! そちの店の品々を、その手形でのみ購入できるようにすれば、庶民は銭を使わずとも、そちの店の品を購入することができると喜ぶであろう。」
玄蕃は、再び盃を傾け、満足そうに喉を鳴らした。越後屋は、その巧妙な仕組みに感嘆の声を上げた。
「お代官様、それはまさに悪魔的な発想でございます! 庶民は、銭を使わずに品物を手に入れたと錯覚し、我々は手形をばら撒くことで、その手形を使える店を増やし、さらなる儲けを得ることができる!」
「ふふふ…越後屋、そちもなかなか悪よのう。しかし、これで終わりではない。この手形には、ある仕掛けを施すことで、さらなる儲けを生み出すことができるのじゃ。」
玄蕃は、さらに声をひそめ、越後屋に耳打ちした。越後屋は、その言葉を聞くと、驚きに目を見開いた。
「な、なんと! お代官様、それは…それはあまりにも…!」
「ふふふ…越後屋、恐れることはない。これは世のため人のため…いや、わしらのためじゃ。この手形はな、一定の期間が過ぎると、価値が下がるようにしておくのじゃ。」
「価値が下がる、と申されますと…?」
「そうじゃ。例えば、今日発行した手形は、一ヶ月後には半分の価値になり、二ヶ月後にはただの紙切れになる、とな。」
越後屋は、その悪辣な仕掛けに、背筋が凍る思いがした。
「お代官様、それはあまりにも酷な仕打ちではございませぬか…! 庶民は、手形を早く使わねばと焦り、我々の店に殺到するでしょう。そして、手形を使い切れなかった者は、泣きを見ることに…。」
「それが狙いじゃ、越後屋! 庶民は、手形を使い切ろうと必死になり、必要もない品まで買い漁るであろう。そして、手形を使い切れなかった者は、諦めて我らの儲けとなるのじゃ。」
玄蕃は、高笑いした。越後屋は、その笑い声を聞きながら、自らの良心がきしむのを感じた。しかし、同時に、これほどの儲け話は二度とないだろうという悪魔の囁きが、越後屋の心を支配した。
「お代官様、しかし…もしこの仕掛けが露見すれば、我々の身が危うくなるのでは…?」
越後屋は、不安そうに玄蕃の顔を覗き込んだ。
「心配無用じゃ、越後屋。この仕掛けは、表向きは『期間限定の特別割引』とでも銘打っておけばよい。庶民は、お得な話に目がくらみ、疑うことなどあるまい。」
玄蕃は、自信満々に言い放った。越後屋は、玄蕃の言葉に納得したように頷いた。
「なるほど、お代官様。それは巧妙な手でございますな。それに、この『江戸ペイの二番煎じ』は、特定の店でしか使えない手形を流通させることで、我々の指定する店の売り上げを飛躍的に伸ばすことができる…。」
「その通りじゃ、越後屋。そして、その指定する店は、そちの店はもちろんのこと、わしが裏で操る店ばかり。つまり、この新しい銭の仕組みは、そちとわしのためだけのものとなるのじゃ。」
玄蕃は、満足そうに腕を組んだ。越後屋は、玄蕃の言葉に深く頷いた。
「お代官様、恐れ入ります。この越後屋、お代官様のためならば、いかなる悪事も厭いませぬ。さっそく、この計画の準備に取り掛かりますゆえ、ご安心くださいませ。」
「うむ、越後屋。そちの働きには、いつもながら感心させられる。期待しておるぞ。」
玄蕃は、盃を空にし、満足げに息をついた。越後屋もまた、盃を空にし、深く頭を下げた。
「お代官様、今宵はまことに貴重なお話をありがとうございました。この越後屋、心より感謝申し上げます。」
「ふふふ…越後屋、そちも存分に稼ぐがよい。なにせ、これはわしらの天下を築くための、第一歩に過ぎぬからのう。」
玄蕃は、不敵な笑みを浮かべた。越後屋もまた、その笑みに応えるように、口元を歪ませた。京の都の闇の中、悪代官と悪徳商人の密談は、さらなる深みへと沈んでいくのであった。
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