木枯らしが吹き荒れる真夜中。江戸はずれの黒沼屋敷の一室で、悪代官・黒沼玄蕃と、いかにも腹黒そうな越後屋宗右衛門が向かい合っていた。盆には上等な酒と肴が並べられているが、二人の目は獲物を狙う鷹のようにギラついている。
「越後屋、今宵の酒はいかがかな?」玄蕃がにやりと笑い、宗右衛門に盃を差し出した。
「お代官様のお心遣い、かたじけのうございます。この越後屋め、身に余る光栄にございまする」宗右衛門は深々と頭を下げながらも、その口元にはぬめりとした笑みが浮かんでいた。
「ふむ。して、例の件だが、首尾はどうなっておる?」玄蕃は本題に切り出した。
宗右衛門は懐から一枚の書状を取り出し、玄蕃に差し出した。「お代官様、ご指示の通り、町中に巧妙な噂を流しております。さすれば、民どもはたちまち不安に駆られ、あるものへと殺到するでしょう」
玄蕃は書状に目を走らせ、満足そうに頷いた。「さすがは越後屋。抜かりがないな。うむ、うむ……。『疫病神が蔓延り、触れるものすべてを汚染する』か。なかなか良い文句だ。民草は愚かゆえ、このような与太話を真に受けるものよ」
「お代官様のお見通しにございます。すでに町奉行所の与力どもにも手を回し、不審な病が流行しているとの触れを出させております。これにより、町衆の恐怖は頂点に達することでしょう」宗右衛門は薄笑いを浮かべた。
玄蕃は酒を一口煽り、舌なめずりをした。「して、その不安を取り除くための『秘策』とやらは、いつ頃世に問うのだ?」
「それが、明日にも市中に『奇跡の除菌水』と銘打ち、売り出す手はずを整えておりまする」宗右衛門は得意げに胸を張った。「この水は、いかなる穢れも清め、病を寄せ付けぬと触れ回ります。もちろん、中身はただの水にございますが」
玄蕃は豪快に笑った。「くっくっく……越後屋、お主も悪よのう。だが、その悪辣さがわしの琴線に触れる。ただの水に高値をつけ、民を欺く。これぞ商人の醍醐味よ!」
「お代官様のお言葉、恐悦至極にございます。しかし、これだけではございません。この除菌水は、特定の病にしか効かぬと触れ込み、その病の特効薬と称して、別の除菌グッズを売り出す算段もつけております」
「ほう、それはまた巧妙な仕掛けよな。病が一つ治れば、別の病で金儲けか。まさに無限ループよ」玄蕃は目を細めて宗右衛門を見た。「しかし、あまり露骨すぎると民草も疑いの目を向けるかもしれぬぞ」
「ご心配には及びませぬ、お代官様。わたくしどもはすでに、御用達の医者どもにも手を回しております。彼らには、除菌水の効能を証言させ、さらには病の兆候がある者には、次なる除菌グッズの使用を強く推奨させる手筈になっておりまする」
玄蕃は腕を組み、唸った。「なるほど、医者を巻き込むとは抜かりがない。病の専門家が言うことならば、民も信じよう。して、その次の除菌グッズとは、具体的にどのようなものだ?」
「それは、『万病を治す奇跡の布』と称した、ただの布切れにございます。これを身につければ、いかなる病も寄せ付けず、すでに罹患した病もたちどころに治癒すると触れ込みます」宗右衛門は自信満々に答えた。
「ただの布切れに万病を治す力があるとは、さすがのわしも笑いが止まらぬわ!」玄蕃は腹を抱えて笑った。「しかし、民草は藁にもすがる思いであろうから、これにも飛びつくに違いない。して、その価格は?」
「さよう、一枚につき百両でございます。もちろん、原価は一銭にも満たぬ紙切れにございますが」宗右右衛門はにんまりと笑った。
「百両か! それはまた豪気な値段設定よな。越後屋、お主の商才には舌を巻くわ」玄蕃は感心したように言った。「だが、それで終わりではあるまい? そちのことだから、まだ何か企んでおるだろう」
宗右衛門はにやりと口元を歪ませた。「お代官様のお見通しにございます。わたくしどもは、この『奇跡の布』の購入者に対し、『さらに強力な除菌効果を持つ』と称して、定期的に新たな除菌グッズを売りつける計画でございます。例えば、『浄化の玉』と称したただの石ころを、月に一度、百五十両で販売いたしまする」
「ほう、定期販売とはまた巧妙な手口よな。一度捕らえた客は、離すまいというわけか」玄蕃は膝を叩いた。「まさに金のなる木を育てるがごとし。して、その『浄化の玉』なるものも、ただの石ころか?」
「左様にございます。河原で拾った石ころにございますが、御神体として祀り、ありがたみを演出いたしまする。民は、高価なものほど効果があると思い込む習性がございますゆえ」
「くっくっく……越後屋、お主の悪知恵には恐れ入るわ。しかし、民衆もいつかは真実に気づくのではないか?」玄蕃は少しばかりの懸念を口にした。
「ご安心ください、お代官様。わたくしどもは、万が一の事態に備え、すでに手を打っております。もし、除菌グッズの効果がないと騒ぎ出す者が現れた際には、彼らを『疫病神に憑かれた者』と称し、町から追放する手筈になっておりまする」
「なるほど、それはまた手厳しい策よな。異を唱える者を排除し、恐怖で民を支配する。さすが越後屋、用意周到よな」玄蕃は満足そうに頷いた。「しかし、その追い出した者をどうするのだ?」
「町外れの廃寺に軟禁し、病が治るまで監禁いたしまする。もちろん、病が治るなどありえませぬゆえ、彼らは二度と表舞台には出てこられませぬ」宗右衛門は冷酷な笑みを浮かべた。
「それはまた、恐ろしい策よな。だが、それもまた世の常か。民草は愚かゆえ、恐怖に支配されるものよ」玄蕃は酒を飲み干し、盃を置いた。「して、この除菌利権、どれほどの金が動くと見ている?」
「ざっと見ても、月に千両は固いかと存じます。年で言えば、一万両を優に超えましょう」宗右衛門は目を輝かせた。「これほど大規模な詐欺は、江戸始まって以来のことでございましょう」
「一万両か……。それはまた夢のような話よな。わしは生涯、これほどの金を見たことがないわ」玄蕃は興奮を隠せない様子で身を乗り出した。「して、わしの取り分は?」
「もちろん、お代官様の取り分は、売り上げの五割でございます。残りの五割は、わたくしどもの運営費用と、役人への口止め料、そして新たな悪事を企むための資金に充てさせていただきまする」
「五割か……。越後屋、そちは気前が良いな。だが、その金、しっかりとわしの懐に入るよう手筈を整えよ。もし、一銭でもごまかしたりすれば、その首、跳ね飛ばすぞ」玄蕃は鋭い眼光で宗右衛門を睨んだ。
「滅相もございません、お代官様!この越後屋め、お代官様には決して逆らいませぬ。すべてはお代官様のためにございまする」宗右衛門は平伏した。
「よかろう。では、この除菌利権、速やかに実行に移せ。わしは、この江戸の民草が、わしの手のひらで踊る様を見るのが楽しみでならぬわ」玄蕃は高らかに笑った。
「かしこまりました。お代官様の期待を裏切らぬよう、この越後屋め、精一杯励みませう」宗右衛門もまた、悪辣な笑みを浮かべた。
二人の密談は夜更けまで続き、江戸の闇に、新たな悪だくみが渦巻いていることを知る者は誰もいなかった。彼らの企みは、江戸の町を除菌グッズという名の虚飾で覆い尽くし、民衆から金銭と自由を奪い去ろうとしていた。翌朝、江戸の町では、新たな疫病の噂と、それを救うという除菌グッズの触れ込みが、瞬く間に広まっていくのであった。
コメント