悪代官と越後屋の密談「救いの壺」

江戸の夜は更け、ひっそりと提灯の灯りが揺れる黒沼玄蕃の屋敷。奥の座敷には、ふくよかな体躯を揺らす悪代官、黒沼玄蕃と、その向かいには深々と頭を下げる呉服問屋「越後屋」の主、越後屋宗右衛門がいた。障子の向こうから聞こえるのは、虫の声と風の音ばかり。ひそやかな密談にはうってつけの夜であった。

「越後屋、よう来たな。今宵はまた、面白き話があるゆえ、とくと聞け」

玄蕃がにやりと笑うと、越後屋は恐縮しきった様子で平伏した。

「ははぁ、お代官様のお呼びとあらば、いかなる用向きでも馳せ参じまする。この宗右衛門、いとけなき頃よりお代官様には並々ならぬご恩を賜り、今日があるのもお代官様のおかげと心得ておりまする」

玄蕃は鼻で笑った。越後屋のへりくだりようはいつものことだが、その奥には常に金への飽くなき執着が見え隠れする。それが玄蕃にとって都合の良いところでもあった。

「相変わらずの口上よな、越後屋。まぁよい。して、本日の件だがな……」

玄蕃は手元にあった煙管で、座敷の畳をコンコンと叩いた。

「近頃、巷では疫病が流行り、民は不安に苛まれておる。その心につけ込むのが、我らの常套手段よな?」

越後屋は顔を上げ、玄蕃の顔を窺った。その眼には、すでに商機を見出した光が宿っている。

「お代官様のおっしゃる通りにございます。飢えや病は、民の心を弱らせますゆえ。そこへ付け入る隙は、いくらでも」

「うむ。して、今度の件は、その民の不安を逆手に取った、まさに救いの壺よ」

玄蕃がそう言うと、越後屋は息を飲んだ。

「救いの壺、でございますか……?」

「そうだ。わしが寺社奉行に圧力をかけ、この地に古くから伝わるという『薬師如来の御神水』が湧き出る壺を、とある寺から発掘させた。無論、御神水などというものはまやかしよ。ただの井戸水じゃわい」

玄蕃は愉快そうに喉を鳴らして笑った。越後屋は一瞬、戸惑いの色を見せたものの、すぐにその意味を悟った。

「なるほど、それは……まことに、奇抜なご発想でございますな、お代官様!」

「奇抜か? これも民のためよ。不安な民には、救いの手が差し伸べられねばならぬ。それがたとえ、わしの手の上で転がされるものだとしてもな」

玄蕃は煙管の煙をふかし、ゆっくりと息を吐き出した。

「その壺の水を、病に苦しむ者に飲ませれば病が癒え、貧しき者に飲ませれば福が来る……と、触れ回らせよ。そして、その御神水をこちらで用意した薬師如来の壺に入れて売るのだ」

越後屋は手を擦り合わせた。その表情は、すでに計算を始めている。

「しかしお代官様、いかに御神水と申しましても、ただの井戸水では……」

玄蕃は越後屋に顔を近づけ、声を潜めた。

「その壺には、特別な装飾を施すのだ。龍の彫刻、鳳凰の絵付け。そして、由緒正しい寺の烙印を押す。いかにも霊験あらたかな品に見せかけるのだ」

「なるほど! それでございますか! 壺そのものにも付加価値をつけると申されますか!」

越後屋は膝を打った。その眼は、すでにギラギラとした光を放っている。

「うむ。そして、その壺を手に入れるには、莫大な寄進が必要だと触れ回る。病で苦しむ者は、藁にもすがる思いで金を出すだろう。貧しき者も、福が来るとなれば、無理をしてでも金を捻り出すはずだ」

「お代官様、まことに恐ろしいご発想でございます……しかし、それがし、賛同いたしまする!」

越後屋は身を乗り出した。

「して、その救いの壺の販売方法にございますが、いくつかご提案がございます。まず、販売場所ですが、やはり人の多く集まる寺社が良いかと。特に、お代官様が発掘させた寺であれば、信憑性も増しましょう」

「うむ、その通りだ。寺の住職には、すでに話を通しておる。やつも、わしには逆らえぬ」

「ははぁ。そして、販売にあたっては、その壺がどれほど霊験あらたかであるかを、物語にして語り継ぐのがよろしいかと存じます。例えば、不治の病に伏していた者が、この壺の水を飲んで奇跡的に回復した、とか。貧しい農民が、この壺を手に入れてから大豊作に恵まれた、とか」

越後屋の口からは、よどみなく金儲けの策略が飛び出す。

「うむ、良いではないか、越後屋。いかにもそちらしい考えだ。民は物語に弱い。特に、自分と同じ境遇の者が救われた話には、心を奪われるものよ」

「恐悦至極にございます、お代官様。さらに、壺の種類もいくつか設けてはどうでしょうか。例えば、一般的な救いの壺の他に、より効能が高いとされる『特撰・救いの壺』、あるいは『究極・救いの壺』などと称し、それぞれ価格に差を設けるのです。人間というものは、一番良いものが欲しいと願うものですゆえ」

玄蕃は越後屋の言葉に満足げに頷いた。

「ふむ、それは面白い。だが、あまりに種類を増やしすぎると、かえって疑念を抱かれるかもしれぬ。せいぜい二種類か、三種類程度にしておくのが賢明だろうな」

「お代官様のおっしゃる通りにございます。では、救いの壺と『特撰・救いの壺』の二種類ではいかがでしょう。『特撰・救いの壺』は、より高価な材料を用い、熟練の職人が手掛けたものと触れ込むのです。そして、年に一度しか手に入らない、などと希少価値を持たせれば、さらに購買意欲を煽ることができましょう」

「うむ、越後屋、そちの商才にはいつもながら感服するわ。して、その壺の価格設定はどうする?」

越後屋はにやつきながら答えた。

「お代官様、それにつきましては、まずは相場を見ながら慎重に決めるべきかと存じます。しかし、民が手を出せないほどの高値では意味がございませぬ。かといって、安すぎても儲けになりませぬゆえ……そうですね、一般の救いの壺は、一家の食費数ヶ月分、特撰はそれの二倍から三倍といったところでしょうか」

玄蕃は顎を撫でた。

「なかなか良い値をつけるではないか、越後屋。しかし、本当にそれほど民から金が取れるのか? 貧しい者も多いぞ」

「お代官様、ご心配には及びませぬ。人間は、命がかかっているとなれば、持てるものを全て投げ出してでも救いを求めるものです。特に、病に苦しむ親や子を抱える者にとっては、多少の無理は承知の上でございましょう」

越後屋の言葉には、人間の弱みを見透かしたような冷酷さが滲んでいた。しかし、玄蕃にとってはそれが心地よかった。

「うむ、その通りよな。そして、その代金は、すべて現金で、しかもしっかりと回収するのだ。後からごねられても困るゆえな」

「ははぁ、無論でございます。そして、回収した銭は、速やかにお代官様とそれがしで、しかるべく分け前を頂戴するという手筈でよろしいでしょうか?」

越後屋がそう問うと、玄蕃は満足げに頷いた。

「もちろん、そのつもりよ。越後屋、そちには日頃の働きに見合った分け前をきちんと与えよう。決して、損はさせぬ」

「お代官様、まことにありがたきお言葉。この宗右衛門、お代官様のためならば、いかなる悪事でも働きまする!」

越後屋は深々と頭を下げた。その顔には、すでに巨万の富を築く夢が描かれているかのようであった。

「して、もう一つ重要な点がある。それは、この救いの壺の効能が、万人に及ぶものではない、ということにしておくことだ」

玄蕃がそう言うと、越後屋はきょとんとした顔をした。

「と、申されますと?」

「もし、全ての者が病から回復し、全ての者が富を得るとなれば、いずれ嘘が露見する。ゆえに、この壺は、信じる心なくしては効能を発揮せぬ、と触れ回るのだ」

「なるほど! それは名案でございますな、お代官様! 信じる心が足りぬゆえに効果がない、とすれば、我らに非はございませぬ! 不幸に見舞われた者がいたとしても、それはその者の信仰心が足りぬがゆえと、責任を転嫁できまする!」

越後屋は手を叩いて喜んだ。

「その通りよ。そして、さらに言えば、この壺の効能は、現世だけではなく、来世にまで及ぶ、とでも付け加えておくのも良いかもしれぬ。現世で救われなくとも、来世で報われると思えば、民は諦めぬだろう」

「お代官様、まことに恐ろしいお考えでございます! しかし、それがし、感服いたしました! それこそが、民を永遠に我らの手中に収める術でございますな!」

越後屋は興奮のあまり、声を震わせた。

「うむ。そして、販売する壺の数には限りがある、と煽ることも忘れるな。希少価値は、購買意欲を掻き立てる最も効果的な手段の一つだ」

「ははぁ、承知いたしました! 数に限りがある、と聞けば、人々は我先にと金を積み上げるでしょう!」

「そうだ、越後屋。そして、もう一つ。この救いの壺を手に入れた者には、定期的に『信仰心を示すための寄進』を募るのだ。一度手に入れた者ならば、さらに金を出すことを厭わぬだろう。信仰心と称して、半永久的に金を巻き上げるのだ」

玄蕃の言葉に、越後屋の顔から血の気が引いた。

「お代官様……それは、まさに、鬼をも凌駕するご発想でございます……!」

「鬼、か。ふふふ……褒め言葉と受け取っておこう。越後屋、そちもなかなかの悪党よな」

玄蕃は満足げに笑った。越後屋もまた、引きつった笑みを浮かべた。

「お代官様には及びませぬ。しかし、この策、まことに行き届いておりまする。これならば、確かに巨万の富が手に入りましょう。そして、この金を元手に、さらなる事業展開も可能でございます」

「うむ。そして、もしこの話が表沙汰になりそうになったら、その寺の住職に全ての罪を押し付け、わしらは知らぬ存ぜぬで通すのだ。住職には、相応の報酬を与えておくゆえ、黙って従うであろう」

「お代官様、抜け目ございませんな。さすがでございます」

越後屋は感嘆の声を漏らした。

「抜け目なく、そして冷酷に。それが悪党としての嗜みよ、越後屋。この世は金が全て。金さえあれば、いかなる悪事も正当化できる。いかなる者をも従わせることができる」

玄蕃の目は、金への欲望でギラギラと輝いていた。

「お代官様の仰せの通りにございます。金こそが、この世の全て。そして、我らはその金を手にするために、いかなる手段も選ばぬ覚悟でございます」

越後屋もまた、玄蕃に負けず劣らずの欲望の眼をしていた。

「して、越後屋、この救いの壺の準備は、どれほどの期間で整う?」

玄蕃は身を乗り出した。

「ははぁ、壺の選定から装飾、そして触れ込みまで、全て滞りなく進めば、さほど時間はかかりませぬ。おおよそ、一月もあれば、販売に漕ぎ着けられるかと存じまする」

「一月か、待ち遠しいな。越後屋、そちの手腕に期待しておるぞ」

「お代官様のご期待に沿えるよう、粉骨砕身努力いたしまする! この宗右衛門、必ずや巨万の富を、お代官様にお届けいたしまする!」

越後屋は深々と頭を下げた。その背中には、すでに悪銭の匂いが漂っているようであった。

玄蕃は、不敵な笑みを浮かべたまま、静かに煙管の煙をくゆらせた。 江戸の夜は、この悪党たちの密談によって、さらに深く、そして暗く沈んでいった。民の苦しみを食い物にする「救いの壺」の企みが、今、着々と進められようとしていた。

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