しとしとと雨が降り続く、鬱蒼とした夜だった。闇に包まれた城下の一角、ひときわ大きく構える越後屋の奥座敷には、ぼんやりと行灯の光が揺れていた。低い声のやり取りが、雨音に混じって時折漏れ聞こえる。座布団にふんぞり返っているのは、この地の悪代官としてその名を轟かす黒沼玄蕃。その向かいで、深々と頭を下げているのは、代官の懐に入り込み、私腹を肥やすことに余念がない越後屋宗右衛門である。
「越後屋、今宵もご苦労であったな」
玄蕃がにやりと笑い、宗右衛門に酒を注ぐよう促す。宗右衛門は心得たもので、手早く徳利を傾け、玄蕃の盃を満たした。
「いえ、お代官様にご足労いただくことこそ、越後屋冥利に尽きまする。ささ、今宵の酒は、特別に仕入れました『千両錦』でございます」
宗右衛門はへつらいながら、自身の盃にも酒を注ぐ。
「ほう、千両錦か。なかなかの目利きよな、越後屋。して、今宵の密談の肴は、いかなるものだ?」
玄蕃は盃を傾け、満足げに喉を鳴らした。宗右衛門はあたりを気にしつつ、声のトーンを一段落とす。
「お代官様、いよいよ来月は参勤交代の季節でございます。例年、この時期は物資の動きも活発になり、我らのような商いを生業とする者にとっては、まさに書き入れ時。しかし、今年は一味違うかと」
宗右衛門の言葉に、玄蕃の目が細められた。
「む、一味違うとはどういうことだ。まさか、上様からの御触れでもあったか?」
「いえ、左様ではございませぬ。実は、近隣の他藩では、昨今の長雨による不作が続き、街道筋の治安も芳しくないと聞き及んでおります。そうなりますと、当然、参勤交代の道中も、例年以上に困難を極めることと存じます」
宗右衛門は、玄蕃の顔色を窺いながら続けた。
「ふむ、なるほど。つまり、何が言いたい」
玄蕃は焦らすような宗右衛門の言い方に、やや苛立ちを見せる。
「ははっ、申し訳ございませぬ。つまり、この状況を逆手にとり、お代官様のお力添えを賜れば、これほど美味い話はございませぬ、と」
宗右衛門はにじり寄り、玄蕃の耳元に顔を近づける。
「ほう……具体的に申してみよ」
「はっ。まず、道中の警備強化を名目に、当藩の足軽を増員するよう、お代官様より上申していただくのです。もちろん、増員された足軽の俸給や食料は、藩の費用から捻出されます。しかし、実際の警備は……」
宗右衛門は、悪どい笑みを浮かべた。
「ふむ、実際の警備は、名ばかりでよい、と申すか。そして、その差額を懐に入れる、というわけか」
玄蕃は宗右衛門の意図を瞬時に理解した。
「お代官様におかれましては、さすがの御慧眼。その通りでございます。しかし、それだけではございません」
宗右衛門はさらに畳み掛ける。
「道中の物資輸送にも目をつけました。例年、他藩の行列は、自藩で賄いきれない物資を当藩で調達しております。しかし、今年は不作の影響で、物資の供給が不安定になることでしょう。そこで、お代官様のご威光を借り、当藩の商人たちが独占的に物資を供給できるよう、お計らいいただきたいのです」
「独占的に、だと? それは、少々露骨ではないか」
玄蕃は眉をひそめた。いくら悪代官とはいえ、露骨すぎる手口は、後々厄介になる可能性もある。
「ご心配には及びませぬ。他藩の困窮につけこむ形ではございますが、あくまで『当藩の地元の商人を優先する』という名目がございます。そして、その中には、もちろん越後屋がございまして……」
宗右衛門はにやりと笑い、懐から一包みの小判を取り出した。行灯の光を鈍く反射する小判の山に、玄蕃の目は釘付けになる。
「ほう……これはまた、気前のよいことよな、越後屋」
玄蕃は満足げに小判を手に取った。ずっしりとした重みが、彼の欲望をさらに煽る。
「ははっ、お代官様のご恩に比べれば、これしき。そして、もう一つ、上策がございます」
宗右衛門は、さらに奥の手があると言わんばかりに、顔を上げた。
「なに、まだあるのか」
玄蕃は興味津々といった様子で、宗右衛門の次なる提案を促した。
「はっ。参勤交代の行列は、必ずや街道の主要な宿場に立ち寄ります。例年、宿場の運営は地元の者が行っておりますが、これを我らが牛耳るのです」
「宿場を牛耳る、だと? それはまた、大胆な発想よな」
玄蕃は感心したように頷いた。
「ええ。街道筋の宿場をいくつか買収し、そこに我らの息のかかった者を送り込みます。そうすれば、宿泊費はもちろんのこと、食事代、土産物代、果ては女郎代まで、すべて我らの懐に入る計算にございます」
宗右衛門は、まるで絵を描くように計画を説明した。その顔は、欲望に満ちて輝いている。
「なるほど、それは美味い。しかし、他藩の行列ともなると、幕府の目もある。あまりに法外な値を吹っ掛ければ、問題になるのではないか」
玄蕃の懸念に、宗右衛門は薄笑いを浮かべた。
「ご安心ください、お代官様。そこは、我らが巧妙に立ち回ります。あくまで『通常よりも上質なサービスを提供した』という名目にして、相場よりも少々高めに設定するのです。それに、道中での不作や治安の悪さを理由に、安全を金で買う者も少なくないでしょう。まさに、つけこむべきは、人の不安でございます」
宗右衛門の言葉に、玄蕃は深く頷いた。人の弱みにつけこむという、悪代官ならではの思考回路である。
「うむ、その通りよな。越後屋、そちの商才には感服する。して、この計画、どれほどの儲けが見込めると申すのだ」
玄蕃の目がギラリと光った。
「ははっ、お代官様。ざっと見積もりましても、これまでの一年間の収入を優に超えるかと。いや、もしかすると、その倍、いや三倍にもなるやもしれませぬ」
宗右衛門は興奮気味に答えた。彼の脳裏には、積み上げられた小判の山がちらついているに違いない。
「三倍だと! それはまた、夢のある話よな」
玄蕃は、盃に残った酒を一気に煽った。
「ええ。そして、この計画が成功すれば、来年以降の参勤交代でも、この手を使えることになります。そうなれば、我らの財は、まさに雪だるま式に増えていくことでしょう」
宗右衛門は、さらなる野望を語った。
「ふむ、それはよい。越後屋、そちはまことに頼りになる男よな。して、この計画を進めるにあたり、まずは何から手をつけたらよい」
玄蕃は、すでに実行に移す気満々である。
「まずは、お代官様より、道中の警備強化を名目に、足軽増員の上申をお願いいたします。それが通り次第、私どもで宿場の買収と、物資の調達ルートの確保に動きまする」
宗右衛門は淀みなく答えた。周到な準備がなされていることが伺える。
「よし、分かった。足軽増員の上申は、わしに任せておけ。それにしても、今年の参勤交代は、これまでになく楽しみになりそうよな、越後屋」
玄蕃は不敵な笑みを浮かべた。
「ははっ、お代官様のお力添えあってこそのこと。すべては、お代官様のお手柄でございます」
宗右衛門は、再び深々と頭を下げた。行灯の光が、二人の悪辣な笑みを、より一層引き立てていた。
雨音は相変わらず降り続き、二人の密談の声を掻き消す。しかし、その声が途絶えた後も、越後屋の奥座敷には、金儲けの企みに心を躍らせる、悪代官と越後屋の不気味な笑い声が、しばらくの間響き渡っていたという。参勤交代という、本来ならば厳粛な儀式が、彼らの手によって、あさましい金儲けの道具へと成り下がろうとしていた。
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